20年目の恋人 [男と女ストーリー]
カウンターに座った女は、薄い水割りに殆ど口を付けていない。
40代と思われる女は、セーターの袖口のほつれを気にしながらうつむいている。
「甘いカクテルでもお作りしましょうか」
鏑木が声をかけると、女性は顔をあげた。
「すみません。ひとりでバーに来たくせに、私お酒が飲めないんです」
「そうでしたか」
鏑木は微笑みながら、ウーロン茶を置いた。
その微笑みに気を許したのか、女性がゆっくり語り始めた。
洗濯物が濡れていたんです。パートから帰ったら雨でびしょびしょだったの。
それを見た途端、あー、今からこれを取りこんで洗い直すのか、お風呂掃除と晩ご飯の仕度もあるのに…って思いました。
朝早くから起きて、洗濯に朝ごはんにお弁当。高校生の息子ふたりを叩き起こすのが結構大変。
家族を送り出してから、掃除と自分の仕度をしてパートに行く。
若い子ばかりがちやほやされる職場で、セクハラまがいのことを言われながら働いて、帰ってすぐに食事の支度。
どんなに忙しくても、家族からはねぎらいの言葉もありません。
当たり前だと思っているの。
夫は忙しく、家でも仕事。息子たちは何を聞いても返事なし。
やっと口を開けば「ウザい」ですよ。
濡れた洗濯物を見た途端、日ごろの不満が爆発したんですね。
そのままUターンして、気づいたら駅から電車に乗っていました。
この町に、昔恋人がいたんです。遠距離恋愛してました。
逢いたくて月に一度通いました。2時間かけて。
帰るのが嫌でした。1分1秒も惜しかった。ずっと一緒にいたかったんです。
「あの頃が懐かしくて、こんな普段着できてしまいました。バカみたいでしょ」
「そんなことはありませんよ」
「あの頃、この店にも来たことがあるんです。町は変わってしまったけど、バー海神のランタンを見たとき、私すごくホッとしたんです」
「そうですか。気づかずにすみません」
「仕方ないです。20年も前ですもの。それに、あの頃は私、モデルみたいに痩せてたし」
女性はここに来て初めて笑った。
「彼と離れたくなくて、この店で終電まで過ごしました。あの時間は宝物だった」
そのとき、カウベルが鳴って、息を切らした男が入ってきた。
「美沙子」
美沙子と呼ばれた女は、まるで彼が来ることがわかっていたように肩をすくめた。
「あらあなた。よくここがわかったわね。仕事は大丈夫なの?」
「そりゃ、こんなメールもらったら」
男がスマホをかざした。
『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
男が女性のとなりに座った。
並んで座るふたりを見て、鏑木は思わず「あっ」と声をもらした。
20年前に寄りそっていたふたりを思い出した。
彼は、「帰りたくない」と泣く彼女を、優しく諭してきちんと終電に乗せた。
そのあと戻って来た彼は、「俺だって離れたくないよ」とため息をついた。
可愛い恋人同士。ふたりの幸せを、鏑木も願わずにはいられなかった。
「たしか、この店でプロポーズをしませんでしたか」
「そうです。よく憶えていますね」
本社に戻れることになった。これからはずっと一緒にいよう。
そう言って、彼は彼女に指輪を渡した。
「あれから20年。私もずいぶん変わっちゃったわ」
「いや、変わったのは僕の方だ。君を失う怖さを改めて思い知ったよ」
妻のプチ家出は、かなり効き目があったようだ。
「ところで、カズヤとユウキの晩御飯はどうしたかしら?」
「コンビニ弁当を食わせたよ。あいつらも心配してた」
「本当かしら。それで、洗濯物は?」
「さあ?それは知らない」
「やれやれ…」
ふたりは、水割りとウーロン茶のグラスをカチンと合わせた。
20年前とまるで同じだ。
少しふくよかになった彼女と、白髪混じりの彼。
20年目の恋人同士は、終電に間に合うように帰って行った。
「お幸せに」
鏑木は、あの頃のようにふたりの背中を見送った。
****
雫石鉄也さんのブログから生まれた「バー海神」の物語です。
大人の雰囲気のバーをお借りして、ストーリーを書いてみました。
主婦目線。私も愚痴もちょっと入っていたりして(笑)
素敵なマスターと味のあるお客様たち。
雫石さんのお話は、こちらから↓
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/c/7e5ac65c4defe90d70f3eeac570bfdd3
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40代と思われる女は、セーターの袖口のほつれを気にしながらうつむいている。
「甘いカクテルでもお作りしましょうか」
鏑木が声をかけると、女性は顔をあげた。
「すみません。ひとりでバーに来たくせに、私お酒が飲めないんです」
「そうでしたか」
鏑木は微笑みながら、ウーロン茶を置いた。
その微笑みに気を許したのか、女性がゆっくり語り始めた。
洗濯物が濡れていたんです。パートから帰ったら雨でびしょびしょだったの。
それを見た途端、あー、今からこれを取りこんで洗い直すのか、お風呂掃除と晩ご飯の仕度もあるのに…って思いました。
朝早くから起きて、洗濯に朝ごはんにお弁当。高校生の息子ふたりを叩き起こすのが結構大変。
家族を送り出してから、掃除と自分の仕度をしてパートに行く。
若い子ばかりがちやほやされる職場で、セクハラまがいのことを言われながら働いて、帰ってすぐに食事の支度。
どんなに忙しくても、家族からはねぎらいの言葉もありません。
当たり前だと思っているの。
夫は忙しく、家でも仕事。息子たちは何を聞いても返事なし。
やっと口を開けば「ウザい」ですよ。
濡れた洗濯物を見た途端、日ごろの不満が爆発したんですね。
そのままUターンして、気づいたら駅から電車に乗っていました。
この町に、昔恋人がいたんです。遠距離恋愛してました。
逢いたくて月に一度通いました。2時間かけて。
帰るのが嫌でした。1分1秒も惜しかった。ずっと一緒にいたかったんです。
「あの頃が懐かしくて、こんな普段着できてしまいました。バカみたいでしょ」
「そんなことはありませんよ」
「あの頃、この店にも来たことがあるんです。町は変わってしまったけど、バー海神のランタンを見たとき、私すごくホッとしたんです」
「そうですか。気づかずにすみません」
「仕方ないです。20年も前ですもの。それに、あの頃は私、モデルみたいに痩せてたし」
女性はここに来て初めて笑った。
「彼と離れたくなくて、この店で終電まで過ごしました。あの時間は宝物だった」
そのとき、カウベルが鳴って、息を切らした男が入ってきた。
「美沙子」
美沙子と呼ばれた女は、まるで彼が来ることがわかっていたように肩をすくめた。
「あらあなた。よくここがわかったわね。仕事は大丈夫なの?」
「そりゃ、こんなメールもらったら」
男がスマホをかざした。
『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
男が女性のとなりに座った。
並んで座るふたりを見て、鏑木は思わず「あっ」と声をもらした。
20年前に寄りそっていたふたりを思い出した。
彼は、「帰りたくない」と泣く彼女を、優しく諭してきちんと終電に乗せた。
そのあと戻って来た彼は、「俺だって離れたくないよ」とため息をついた。
可愛い恋人同士。ふたりの幸せを、鏑木も願わずにはいられなかった。
「たしか、この店でプロポーズをしませんでしたか」
「そうです。よく憶えていますね」
本社に戻れることになった。これからはずっと一緒にいよう。
そう言って、彼は彼女に指輪を渡した。
「あれから20年。私もずいぶん変わっちゃったわ」
「いや、変わったのは僕の方だ。君を失う怖さを改めて思い知ったよ」
妻のプチ家出は、かなり効き目があったようだ。
「ところで、カズヤとユウキの晩御飯はどうしたかしら?」
「コンビニ弁当を食わせたよ。あいつらも心配してた」
「本当かしら。それで、洗濯物は?」
「さあ?それは知らない」
「やれやれ…」
ふたりは、水割りとウーロン茶のグラスをカチンと合わせた。
20年前とまるで同じだ。
少しふくよかになった彼女と、白髪混じりの彼。
20年目の恋人同士は、終電に間に合うように帰って行った。
「お幸せに」
鏑木は、あの頃のようにふたりの背中を見送った。
****
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主婦目線。私も愚痴もちょっと入っていたりして(笑)
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2015-11-21 17:05
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コメント(15)
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リンさんさん おはようございます。
静かな流れの素敵なお話しです。こんな体験、ちょっとあこがれてしまいます。見合結婚だったので!
by SORI (2015-11-22 08:13)
みごとです。
この「海神」シリーズの原作者ですが、男性の私にはこんな作品はかけません。
女性で、主婦のりんさんならではの作品です。前半の主婦の日常生活をリアルに書くことによって、後半の部分が生きています。さすがです。
by 雫石鉄也 (2015-11-22 08:52)
とっても素敵
by はる (2015-11-22 11:21)
リンさん私がこういう話に弱いこと知っていますよね。
今の日常がどんなにつまらなくても、原点さえしっかり
していれば人は強いのです。
年を経ても真実の愛は何にも負けはしません。
素敵な晩秋のプレゼント貰ったみたいです。
by dan (2015-11-22 12:29)
貴ブログにも何度も来ているであろう「さらまわし」というブロガーが
皆を欺く事を止めないので「公開質問状」を拙ブログにUPしました。
この人物がnice!を押してもお礼nice!などけして為さらないで下さい。
by U3 (2015-11-22 16:11)
あれれ・・・?朗読のお願いをしたはずなのに最初の一行だけしか
出ていない?!どうゆうことだ!なぞダ~!
by はる (2015-11-22 16:17)
いいですねー
なんだかうれしうなって来ますね、海神シリーズ。
基本的に雫石さんの海神シリーズはハードボイルドでしょ。
鏑木の心情は一切書かれていない。
りんさんの作品では多少それがあります。
またそこがいいんですよね。
ところで、
>「そりゃ、こんなメールもらったら」
> 男がスマホをかざした。
> 『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
ここのところは不自然に感じました。
わざわざ見せなくても自分が送ったメールだから知ってますもんね。
ここは
「そりゃあ、あんなメールをもらったら、ピンとくるだろ」
と、メールの内容は書かずにおいて、最後の方で鏑木がどんなメールだったのか質問すると言うのはどうでしょう。
「ああ、実はこんなメールなんです」
男はスマホを取り出した。
『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
by 海野久実 (2015-11-23 12:08)
<SORIさん>
ありがとうございます。
お見合いですか。
それも素敵な出会いですよね。
きっと結婚してから恋愛したんでしょうね^^
by リンさん (2015-11-23 14:41)
<雫石鉄也さん>
ありがとうございます。
気に入っていただけてホッとしました。
雫石さんの「出航」は20年目の別れでしたね。
夫婦もいろいろな形があるものですね。
またいつか書かせていただきます。
by リンさん (2015-11-23 14:51)
<はるさん>
ありがとうございます。
朗読もちろんOKです。
よろしくお願いします^^
by リンさん (2015-11-23 14:53)
<danさん>
ありがとうございます。
遠距離恋愛を書くとき、ちょっとdanさんを思い出しました。
そういう経験って、後から思えば宝物ですよね。
by リンさん (2015-11-23 15:01)
<U3さん>
さらまわしさん、ブログやめてしまいましたね。
by リンさん (2015-11-23 15:02)
<海野久美さん>
ありがとうございます。
鏑木さんは無口だけど、客とのふれあいを大切にしてますよね。
いろんなドラマがあって素敵だと思います。
海野さんもぜひ、常連に^^
メールの件、言われてみればなるほどでした。
ドラマなんかで、よくスマホのメールを見せたりするシーンがあるので、そんな感じで書きました。
最後に持ってくる方が自然かもしれません。
ただ、鏑木さんに質問させるより、文章で書く方がいいかもしれません。
帰りの電車の中で妻がスマホを取り出す。
『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
返信『僕もすぐ行く』
とかね^^
by リンさん (2015-11-23 15:23)
>帰りの電車の中で妻がスマホを取り出す。
>『さようなら。輝いていた頃の私に逢ってきます』
>返信『僕もすぐ行く』
ああ、いいですね。
これは素敵なラストシーンになりますね。
最近のテレビドラマを見てると不自然な演出があふれていますよね。
安易に取り入れない方が(笑)
by 海野久実 (2015-11-24 15:48)
<海野久美さん>
そうですね。このほうがいいですね。
今回は、はるさんが朗読してくださっているので、原文のままにしておきます。
アドバイスありがとうございました^^
by リンさん (2015-11-25 17:03)