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解禁 [公募]

鮎釣りが解禁になり、新しい竿を抱えていそいそ出掛けた夫は、そのまま帰って来なかった。
夫は、慣れたはずの川で命を落とした。
川岸に残されたのは、空っぽのクーラーバッグと、ひとりの見知らぬ女だった。

女は、体中の全ての汁を出し切るような勢いで泣いていた。
「すみません。私のせいで芦田さんが……」
女は泣きながら、慣れない岩場で足を滑らせた女を庇って、夫が川に落ちたと話した。
「家庭を壊すつもりなんてありませんでした。たまにふたりで食事をするだけで幸せでした。だから週末の釣りに誘ってくれたときは嬉しくて……。それがこんなことに……」
ぼんやりした頭で、ぐちゃぐちゃになった女の顔を見ていた。
誰? この人? 冷たくなった夫に尋ねても、答えるはずがない。

夫には愛人がいた。そんな素振りは微塵も見せず、平然と女と釣りに行っていた。
梅雨のねっとりする風の中、骨になった夫を抱く。涙ひとつこぼれてこない。
泣こうとしても、あの女のぐちゃぐちゃの顔が浮かんで泣けなかった。

四十九日が過ぎたころ、安岡が訪ねてきた。夫の昔からの釣り仲間だ。
「芦田君の弔いをかねて、鮎釣りに行って来たよ。あいつが死んだ川で、あいつも分も釣ってやろうと思ってね。そうしたら、これが木の枝に引っかかっていたんだ」
安岡は、黒い携帯電話を差し出した。
夫のものだ。一緒に流されたのだと思っていた。
「誰かが拾って木に掛けたのかもしれない。ストラップに見覚えがあったから、芦田君のものだと気づいたんだ」

防水機能が付いた携帯は、思ったよりも傷がなく、きれいな状態だった。
「持ち帰って、家で充電してみたんだ。そうしたら未送信のメールがあってね。それもあの事故の日に、奥さんに宛てたメールだ。なんだか気になってね。」
女と出掛けた釣りで、どんなメールを送ろうとしていたのだろう。
震える指でボタンを押すと、何とも呑気な言葉が踊っていた。

『今から帰る。大漁だ。今夜は鮎祭りだ』

「芦田君らしいな。笑顔が目に浮かぶよ」
安岡が微笑んだ。拍子抜けするとともに、ふと、ひとつの疑問が沸いた。
「何が大漁よ。クーラーバッグは空だったわ」
「待てよ。変だな。この文面からすると、釣りが終わって帰り支度をしているようだ。じゃあ、あいつはなぜ川に落ちたんだ?」
私は少しためらった後、夫が愛人と釣りに行き、女を庇って川に落ちたことを話した。
安岡は何度も「信じられない」と言った。
「まさか芦田君が女を、しかも初心者を釣りに誘うなんて。いや、ありえないな。釣りはあいつにとってとても神聖なものなんだ」
言われてみればそうだ。長年連れ添った私でさえ、一度も誘われたことがない。
女の話は本当だろうか。
「ちょっと調べてみようか。釣り仲間に、何か事情を知っている奴がいるかもしれない」
安岡はそう言って帰って行った。
モヤモヤしながら季節はすっかり秋になり、鮎釣りの季節も終わりを告げた。

安岡が訪ねてきたのは、秋桜がだらしなく倒れた晩秋のことだ。
「奥さん、芦田君はやはり不倫なんかしてなかったよ。どうやらその女は、芦田君がたまに行くスナックの女だ」
安岡はそう言って写真を見せた。泣き顔しか見ていない女の、厚化粧の顔が写っていた。
「不幸な生い立ちの女で、芦田君は相談に乗ったり、酔って絡んでくる客から、彼女を助けたりしていたらしい。まあつまり、女がそれを愛だと、勝手に勘違いしたんだな」
それから女は、夫の会社を執拗に訪ねたり、帰り道を待ち伏せするようになった
あの釣りの日も、女が夫を尾行したのではないかと安岡は言った。
女が夫を突き落とし、釣った鮎を川に放ったのだとしたら……。
証拠はない。夫はもう骨になってしまった。
安岡が帰った後、夫の写真の前で初めて泣いた。

夏が来て、再び鮎釣りが解禁になった。
今日は夫の命日で、私は、あの川に来ている。
恐らく今日、女が花を手向けに来ると思ったからだ。
待ち伏せて、女が岩場に花束を置いたとき、思い切り背中を押してやる。
あの日から私は、そんなことばかり想像してきた。

やはり女はやってきた。大きな百合の花束を抱えている。
女はそれを岩場に置くと、私が近づくまでもなく、あっという間に川に身を投げた。
女は、夫の後を追ったのだ。

許せない。
夫の後を追って死ぬのが、あの女であってはならない。
私は大声で叫んだ。
「助けて。誰か助けて!」
後追い自殺など、させるものか。
「人が溺れています。誰か助けて!」
山間に響く大声で、私は助けを呼び続けた。

***********

公募ガイドTO-BE小説工房の落選作です。
課題は「鮎」です。難しい課題ですよね。
鮎の塩焼きは美味しいけれど、食べるの専門で釣りなんて行ったことないし。
やはり無理があったかもしれません。


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SORI

リンさんさん こんばんは
女心の複雑さを実感させられる物語に感心させられました。最初は鮎の化身かなと思っていましたが、スナックの女性だったのですね。
by SORI (2018-05-10 21:51) 

まるこ

リンさん、こんばんは。

こんな女に好かれてしまっただんなさんが
気の毒です><
しかも後追い自殺だなんて。

「砂の城」っていう昔読んだマンガを
思い出しました。
どういう思いであれ、後追いは身勝手です><
by まるこ (2018-05-10 23:16) 

mura

いい旦那さんだったのに奥さんに誤解されてかわいそうでした。
でも、本当のことがわかってよかったです。
コスモスが「だらしなく」倒れていたところが、彼女の心情を表していますね。

誌面、拝見しました。
まさに、掌小説の名手ですね。 

by mura (2018-05-10 23:31) 

dan

複雑そうな主人と女の関係。真相、私の心情の変化など
読み物として面白かったです。
課題が鮎で題が「解禁」というのもいいと。

今日書店で最優秀作読みました。
ああ、いいなあと素直に思いました。
次期待しています。
by dan (2018-05-12 23:08) 

雫石鉄也

公募ガイド6月号を見ました。

この作品もなかなかいいです。ダークな短篇ミステリのおもむきがありました。
この作品が入選しなかったのは、作品として劣っているからでは決してありません。作品そのものは充分に入選に値します。ただ、「鮎」というテーマのショートショートの募集という阿刀田の意図から外れているだけです。
この作品、川ではなく海でも、鮎ではなく石鯛でも、成り立つ話です。やはり鮎の持つ特性、川魚、香りがいい魚、姿が美しい魚、串に刺して塩焼きにしたらおいしい。といったことを生かした作品を阿刀田は求めていたのでしょう。優秀作の「おいしい鮎」はそのあたりを、おさえてありました。
作品そのものは、「おいしい鮎」よりもこの「解禁」の方が優れております。阿刀田がアホでそのへんが読み取れなかったのか、ただたんにテーマを外れていたのか判りませんが、選評で触れるべきであると思います。
by 雫石鉄也 (2018-05-14 13:41) 

リンさん

<SORIさん>
ありがとうございます。
鮎の化身ですか。いいですね^^
そういうファンタジックな話の方がよかったかもしれません。

by リンさん (2018-05-17 21:02) 

リンさん

<まるこさん>
ありがとうございます。
どんな理由でも、自ら命を絶ってはいけませんよね。
「砂の城」って、一条ゆかり?
ずいぶん前の漫画ですね。
まるこさん、本当によく知ってますね。
by リンさん (2018-05-17 21:07) 

リンさん

<muraさん>
ありがとうございます。
「コスモスがだらしなく」で、庭の手入れをする気力もなくした妻を表現してみました。
掌小説の名手…お恥ずかしい^^; 

by リンさん (2018-05-17 21:10) 

リンさん

<danさん>
ありがとうございます。
課題が鮎だと知って、鮎釣りを思いうかべたのが最初です。
解禁って、何となくミステリーっぽくていいなと思いました。
今月の課題は「隣人」ですが、これまた浮かばないんですよね~
by リンさん (2018-05-17 21:13) 

リンさん

<雫石鉄也さん>
ありがとうございます。
やはり課題が難しかったかと思います。
応募もいつもより少なかったようですし。
確かに、鮎じゃなくても成立する話ではダメだったのかもしれませんね。

阿刀田先生は、この話を読んでいないと思います。
下読みの段階で落とされているので。

by リンさん (2018-05-17 21:17) 

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