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ぬかみそ

スズメの涙ほどの給料袋を抱えて、葉子は家路を急いだ。
生まれて初めてのお給料だ。
これでお母さんと妹に何か買ってあげよう。
空に浮いているようなおぼろ月が、笑っているような夜だった。

父親がいなくて貧しかった葉子は、中学卒業とともに働きに出た。
45年も前のことだ。
学校から紹介されたのは、老舗の料亭の下働き。初月給は、今の若者が聞いたらテーブルをひっくり返して「マジか!」と言いそうなほど安かった。
それでも葉子は、走り回りたいほど嬉しかった。

下働きは厳しくて、叱られたり苛められたりしたけれど、料理の仕事は好きだった。
一番つらかったのは、買い出しの途中で同級生に会うことだった。
「あれ、葉子じゃん」
セーラー服の女子高生が、割烹着の葉子を取り囲む。
「有名な料亭なんでしょ。いいなあ、美味しいもの食べられて」
「そんなことないよ」と笑いながら、葉子は思った。
それ、本気で言ってるの? 毎日お母さんが作った2段のお弁当を持って高校に行く方が、よっぽどいいじゃないの。
手を振って別れた後、背中越しに「なんか、ぬかみそ臭くなかった?」と言う同級生の声が聞こえた。みじめで泣きたくなった。

還暦を迎える年になり、葉子は初めて、中学校の同窓会に出席することにした。
どうせ話が合わないと思ったし、仕事も忙しかったから一度も出ていない。
会場のホテルに着くと、それらしい団体がロビーを占領していた。
それなりに60年の年を重ねたおじさんとおばさんが、肩を叩きながらあだ名で呼び合っている。
ひとりの女性が葉子に気づいた。
「あら!」と目を丸くして近づいてきた。
「味山葉子先生じゃありません? 料理研究家の味山先生ですわよね」
「ええ」と葉子は頷いた。
「わあ、本当だ。先生の本、全部持っています。テレビの料理番組も欠かさず見ています」
「私も、先生のレシピいつも参考にしてるんですよ」
色とりどりの服を着たおばさんたちが、葉子を取り囲む。
葉子は、今日本で一番人気の料理研究家であった。

最初葉子を「先生」と呼んだ女は、みっちゃんだとすぐにわかった。
みっちゃんは老け顔だったのであまり印象が変わっていない。
45年前のあの日、葉子を「ぬかみそ臭い」と言った同級生の一人だ。

「先生、握手してください」
みっちゃんが手を差し出した。
「私の手、ぬかみそ臭いわよ」
「素敵です。先生のぬか漬け、食べてみたい」
葉子はその時、何となく「勝った」という気がした。
45年も前のことなど、誰も覚えていない。葉子のことさえ、もう彼女たちの記憶から消えているだろう。
だからどうでもいいことなんだけど、何となく気分が良かった。
葉子はにこやかに握手に応じ、「ごきげんよう」とその場を去った。

「先生、同窓会に出席しないんですか?」
待たせていた運転手が、不思議そうに聞いた。
「もういいの。何だかねえ、みんなぬかみそ臭いおばさんになっちゃって、ふふふ、だからもういいの」
「ここ、先生の故郷ですよね。どこか寄りたいところはありますか?」
「じゃあ、この先の角のお肉屋さんに寄って。初月給でコロッケを買った店なの」
ホテルの同窓会ブッフェより、家族で食べた1個50円のコロッケ。
今日はそんな気分の葉子だった。

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コメント 6

ぼんぼちぼちぼち

すごい!大出世!してやったりでやすね。
人生、どこで逆転するか解らないでやすよね。
by ぼんぼちぼちぼち (2019-10-17 22:04) 

dan

初月給で買った一個五十円のコロッケの味。
それを忘れなかったから葉子さんは一流の料理研究家に
なれたのですよね。
by dan (2019-10-19 20:58) 

SORI

リンさんさん おはようございます。
やっぱり人生は45年後からなのかな。コロッケが思い出なのが分かる気がします。
by SORI (2019-10-22 08:08) 

リンさん

<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
こういうことがあるから、人生って面白いですね。
by リンさん (2019-10-26 12:55) 

リンさん

<danさん>
ありがとうございます。
そうですね。家族のために買ったコロッケ。
そういう気持ちが大切なんですね。
by リンさん (2019-10-26 13:03) 

リンさん

<SORIさん>
ありがとうございます。
若いころに苦労した分、人生大逆転だったのですね。
by リンさん (2019-10-26 13:15) 

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