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対岸の家 [公募]

施設の前には、大きな湖がありました。
湖の向こう側は、私が生まれ育った町です。
よく晴れた日は、高台の小学校や公園の展望台が、すごく近くに見えるのです。
そして小学校の裏山を上った先にある私の家が、はっきりと見えるのです。

もう誰も住んでいません。両親はとうに亡くなり、弟は遠い街で所帯を持ち、帰るつもりはなさそうです。
半年前まで、独りでどうにか暮らしていましたが、歩くことが困難になって施設にお世話になることにしました。
こうして眺めていると、誰も住んでいない家が不憫です。
たまに帰って空気の入れ替えをしてあげたいけれど、それも叶いません。

施設に来てから、ただの一人も面会に来ません。夫も子供もいないのです。
弟は遠くにいるから滅多に会いに来ません。
長いこと働いて、両親と家を守ってきました。気がつけば独りです。
湖のほとりで、近くて遠い我が家を見ることだけが、私のライフワークになっているのです。

「そろそろ夕食の時間ですよ」
ヘルパーさんが迎えに来ました。湖が夕陽で赤く染まっています。
向こう岸にもチラチラと灯りが灯り始めています。
「ねえ、湖の向こう側に行くには、車椅子でどのくらいの時間がかかるかしらね」
「まあ、車椅子で? そうですねえ、ぐるっと回って行くしかないから、車でも三十分以上かかりますよ。車椅子だったらきっと一日がかりだわ。ここからまっすぐ、橋でも架かっているなら別ですけどね」
ヘルパーさんは笑いながら車椅子を押してくれました。
ああ、本当に橋が架かっていたら、どんなに近いでことでしょう。

それから私は、湖のほとりに行くたびに想像しました。
ここからまっすぐ、向こう岸まで延びている橋を思い浮かべました。
透明な硝子で出来ている橋はどうかしら。まるで湖の上を歩いているみたいで素敵。
そんな夢みたいなことを考えていると、寂しさや不安が消えていくのです。

ある日のことでした。
日暮れまで湖のほとりでぼんやりと、対岸の家を眺めていました。
夕凪が心地よく、サワサワとガマの葉を揺らしていました。
ふと見ると、私の家の窓に、灯りが灯っているのです。
誰もいないのに、なぜ灯りが? 
他の家と見間違えたのかと思い、目を凝らしてもう一度見ました。
やはり私の家です。まるで誰かが住んでいるように、普通に当たり前に、灯りが灯っているのです。

弟が帰って来たのかしら。いいえ、あの子は鍵を持っていないはず。
連絡もなしに来たことなんて一度もない。
まさか、泥棒? 盗られるものなんて何もないけれど、放火でもされたらたまらない。
ああ帰りたい。見えるのに、こんなに近くに見えるのに。
私は必至で湖に近づきました。橋があれば、せめて橋があればと願ったそのときです。

私の足元に、透明の橋が現れました。
私の足元からまっすぐ、向こう岸まで延びています。
それは、私が想像していた橋そのものでした。
硝子で出来た、きらきら光る橋でした。
私は立ち上がりました。自分でも驚くほど自然に立ち上がったのです。
足は痛くありません。痛くないどころか、勝手に動き出すほど元気です。
ああ、これは夢かしら。あれほど重かった身体が、何て軽やかなのでしょう。

私は橋を渡りました。ときどき走って、ときどき藍色の湖を覗き込んで、対岸の灯りに向かって歩き続けました。
湖は穏やかです。時おり渦を巻いて水が跳ねます。魚が悠々と泳いでいます。
故郷の町に着くと、一気に坂道を駆け上りました。毎日のように上っていた坂です。
とうに閉店したはずの駄菓子屋が、店先でラムネを売っていました。
店のおばちゃんが「早く帰らないと叱られるよ」と、声をかけました。
夢でしょうか。私はおかっぱ頭の、小さな子供になっていたのです。

家の前に母がいました。小さな弟をおんぶして「いつまで遊んでるの」と私を叱ります。夕餉のいい匂いがして、私のお腹がカエルみたいに鳴りました。
家に入る前に振り返って、湖の向こう岸を見ました。
大きな施設がありました。窓にはたくさんの灯りがあります。
湖のほとりに、空の車椅子がポツンと置かれています。
硝子の橋は、跡形もなく消えていました。

私は振り返るのを止め、元気よく、大好きな我が家に入りました。
「ただいま。お腹ペコペコ」

******
公募ガイド「TO-BE小説工房」で、選外佳作だったものです。
課題は「橋」でした。
何でもコロナのせいにするわけではないけれど、ちょっとペースが乱れています。
何だか落ち着かないし、休日は家族全員家にいるし(笑)
こちらはようやく日常を取り戻しつつありますが、まだまだ不安ですね。
みなさんは。いかがですか。

nice!(8)  コメント(6) 

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コメント 6

雫石鉄也

1行目からひっかりました。
>施設の前には、大きな湖がありました。
過去形で書いてありますね。ということは、今は湖はないのですか?主人公が身を置く時制が混乱しますね。
「私が以前いた、施設の前には、大きな湖がありました」ということでは、主人公は、今は施設にいなくて、「昔いた、、施設の前には大きな湖がありました」と、いうことになりますね。すると主人公はどこにいるのでしょう?あの世でしょうか?
by 雫石鉄也 (2020-06-10 14:39) 

ぼんぼちぼちぼち

あっしはほぼ日常の生活に戻ってるかな。映画館も再開したし。
あとはカラオケボックスが再開したら完全日常かな。
by ぼんぼちぼちぼち (2020-06-10 18:13) 

SORI

リンさんさん おはようございます。
昔に戻れる素敵なガラス橋にタイムスリップ 
夢なのか現実なのか 人生をかんじさせてくれる物語でした。
by SORI (2020-06-13 09:03) 

リンさん

<雫石鉄也さん>
ありがとうございます。
そうですね。ここは過去形ではいけなかったですね。
湖があります。とする方が良かったですね。
最初の3行が肝心と言われていますから、これではいけませんね。
ご指摘ありがとうございます。
by リンさん (2020-06-14 14:16) 

リンさん

<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
こちらもほぼ再開していますが、まだちょっと規制がありますね。
それは仕方ないですけどね。
お友達との飲み会も、もう少し我慢かな~
by リンさん (2020-06-14 14:19) 

リンさん

<SORIさん>
ありがとうございます。
人生の終わりに、一番幸せだったころに戻れたんですね。
ちょっと悲しいですけど。
by リンさん (2020-06-14 14:22) 

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