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床暖房の家

小さな田舎町に、白い壁の素敵な家が建った。
都会から移住してきたその家には、私と同じ小学生の女の子がいた。
私は、子供会の役員をしていた母と、引っ越してきたばかりの家に挨拶に行った。
優しそうなおばさんと、可愛いワンピースを着た舞ちゃんがいた。
リビングに入るなり、私は「わあ」と声を上げた。
床が暖かい。
「床暖房が入っているのよ」
おばさんは手作りのクッキーを皿に載せながら優しく笑った。
なんて暖かい家だろう。
舞ちゃんの部屋はとても可愛い家具とぬいぐるみで溢れた、夢のような部屋だ。
自分の家に帰ったとき、いかにも農家らしい引き戸と、玄関に置かれた魚をくわえた木彫りの熊に、いつになくガッカリしたのを憶えている。

私はたまに、舞ちゃんの家に野菜を持って行った。
おばさんは「新鮮な野菜ね」と喜んで、お返しにケーキやローストビーフをくれた。
ローストビーフというものが、この世にあることを知ったのはこの時だ。
そんなやりとりを幾度か続けたが、母は突然交流を断った。
舞ちゃんはあまり学校へ来なくなり、ある日何も言わずに引っ越してしまった。
「舞ちゃんはどうしたの?」
母に聞いても「知らない」と言うばかりだった。
舞ちゃんのお父さんが事業に失敗して借金を作ったとか、本当はたいして金持ちでもないのに無理して大きな家を建てて破産したとか、いろんな噂が流れたが、真実はわからない。
ただ私は、もう一度あの暖かい家に行きたかったと、心から思った。

月日は流れ、私は大人になり、結婚して母になり、念願のマイホームを建てた。
「絶対に床暖房にしたい」という私の願望を、夫は叶えてくれた。
引っ越しを終えたある日、客が来た。
「S町子供会支部長の田中です」
上品そうな田中さんを部屋に招くと、「わあ、床が暖かい」と確かめるように手に平を当てた。
「床暖房です」
「いいですね。私の家も、前は床暖房でした。母が冷え性なもので」
私は田中さんをじっと見た。渡された名簿で名前を確かめる。
『田中舞』
「もしかして、舞ちゃん? M町に住んでた舞ちゃんでしょ」
田中さんは、驚いたように目を丸くした。
「香織ちゃん?」
「そうよ。ほんの数か月だったけど、よくお家に遊びに行ったわ」
あまりに偶然の再会だった。
「舞ちゃん、急に引っ越しちゃって、私寂しかったよ」
「あのときは酷かったわ。ママがおかしくなっちゃって、本当に最悪だった」
舞ちゃんは、嫌なことを思い出したように目を伏せた。
「あの町のしきたりに馴染めなくて、ママはずいぶん苛められてたの」
ママ友の苛め? 子供の私には、みんな優しい大人に見えたけど。
「香織ちゃんのお母さんは仲良くしてくれたけど、ある日突然来なくなった。きっと周りの人に言われたのよ。よそ者と仲良くするなとかね。パパはいつも帰りが遅かったし、ママは孤立して精神的におかしくなったの。それで引っ越したのよ」
「知らなかった。ごめんなさい」
「いいのよ。香織ちゃんは何も悪くないでしょう。それより、子供会の話よ」
舞ちゃんは分厚いファイルを開いた。

「決まり事がいくつかあるの。まず、朝と夕方、黄色いタスキをかけて通学路に立ってください。毎日です」
「毎日!」
「月に一度の保護者会には必ず出席してください。欠席の時は理由を書いて役員の認可を受けてください。季節ごとの行事には必ず参加。クリスマス会と新年会は手作りの料理を持ち寄ります。他の方と被らないようにコミュニケーションを取ってください。それから雨の日は町内会長さんが車を出して児童の送迎をしてくれます。お中元とお歳暮を欠かさず送ってください。それから……」

「ちょっと待って。無理だわ。仕事もあるのにそんなに……。あと、雨の日は車なの? 傘をさしていけばいいのに」
「じゃあ、あなたの子供のためだけに、私たちは雨の日に通学路に立つの?」
「だけど…」
「従ってもらうわ。だって、しきたりだもの」
「し、しきたり……」

暖かいはずの床に、冷たい空気が流れた。


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