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隣の芝生

庭のツツジは満開で、日差しは輝き、風は穏やかに頬をかすめる。
5月は暖かい。5月は素敵だ。
何より今日は、妻が朝から上機嫌だ。
「ねえ見て。バラもそろそろ咲きそうよ」
放物線を描くホースの水は時おり七色の虹を浮かべる。
本当にいい日だ。

思えば妻は、ずっと機嫌が悪かった。
一人息子が結婚して、東京で新居を構えたのは2年前。
それだけでも寂しいのに、今年の正月、息子夫婦は帰って来なかった。
「あちらの家には行ったのよ。あちらの家に行ったなら、こちらにも来るべきじゃないかしら。だいたいね、婿に出したわけじゃないのよ。もう少しこちらに気を遣ってもいいと思わない?」
「おまえが、子供はまだか、早く孫の顔が見たいとか言うからだ。そういうデリケートな話題はいくら家族でもタブーなんだ」
「あら、私なんてお義母さまから、もっとひどいことを言われたわよ。男の子を産まなかったら離縁するとまで言われたのよ」
「まあ、そういう時代だったんだ」
「冗談じゃないわ。こんなことなら女の子を産めばよかったわ」
「いや、それはおまえ、無理だろう」
「だってね、お隣の幸子ちゃんなんて、毎週のように帰ってきてるわよ。私も帰省した娘と買い物に行ったりしたかったわ」

1月からずっと、こんな調子だった。長い長い氷河期だった。
春が来て、ツツジが咲いて、ようやく妻が笑顔になった。
もうすぐ牡丹や紫陽花も咲く。
盆休みには、さすがに息子も帰省するだろう。

そのとき、隣の奥さんが垣根から顔を出した。
なんてタイミングが悪いんだ。娘自慢か?
「こんにちは。ツツジがきれいね」
「あら、奥さん、今日は幸子ちゃん来ないの?」
心なしか、棘のある言い方に聞こえる。
「午後から来るわ」
「いいわねえ。嫁に行った娘さんがしょっちゅう帰ってきて。うちの息子なんか、正月も帰ってこなかったのよ」
雲行きがあやしくなってきた。穏やかだった風も、いくらか強くなってきた。
こりゃあ、また荒れるぞ。

ところがそこで、隣の奥さんが大きなため息をついた。
「午後から幸子が来ると思うと、私、憂うつで」
「えっ、なぜです?」
奥さんは、「聞いてくれます?」と、庭になだれ込んできた。
「愚痴を聞かされるんです。ダンナの愚痴、姑の愚痴、小姑の愚痴。毎日のように聞かされるんです。平日は電話で、休日は家に来て。延々と、悪口ばかり言うんです。もう私、ストレスで頭が変になりそうです。おまけに冷蔵庫の食材は持って行っちゃうし、一緒に買い物に行けば娘の分まで払わされるし、これで孫なんか出来たら私、どうなってしまうのでしょう。身も心も財布もボロボロです」

隣の奥さんは、うちの庭で散々不満をぶちまけた後、いくらかすっきりした顔で帰って行った。
隣の芝生は青く見えるというけれど、本当だ。
午後になると、「お母さん、ただいま~」という幸子ちゃんの声が聞こえてきた。
「お隣も大変ね。うちは男の子でよかったわ」
妻が、朝よりずっと機嫌のいい顔で言った。
向かいの家のベランダには、小さな鯉のぼりが泳いでいる。
幸せそうなあの家にも、きっといろいろあるのだろう。
そんなことを思いながら、5月の庭で伸びをした。


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