SSブログ

ひとりの夕食

父の様子がおかしいと、姉から電話があった。
3か月前に母が亡くなり、父は独り暮らしになった。
近所に住む姉が、毎日食事を作りに行っていたが、夕飯を全く食べていないという。
「お昼は残さず食べるのよ。だけどね、夕飯用に作った料理には手を付けてないの。レンジでチンするだけなのに、それも面倒なのかしら。お願い、一度様子を見に行って。私はついキツイこと言っちゃうから」
そんなわけで、次の休日、父の家に向かった。

父は少し痩せていたが、思ったよりも元気だった。
台所に行くと、シンクの横に洗った皿や小鉢が伏せてあった。
「なんだ。ちゃんと夕飯食べてるじゃない」
と思ったが、冷蔵庫には姉が作った料理がそのまま入っていた。
「お父さん、お姉さんの料理、不味いの?」
「いや、なかなか美味いよ」
「じゃあどうして食べないの? 何か買ってきて食べてるんでしょう」
「いや、実はな……」
父は、ふたりしかいないのに、急に声を潜めた。
「お母さんが、料理を作りに来るんだ」
「はあ?」

父は言う。
日が暮れると、勝手口のドアがすうっと開き、母が入ってくるのだと。
母は台所に立ち、父が好きな煮物や玉子焼きやタコの酢の物を作って、すうっと出て行くのだと。

「しっかりして。お母さんは死んだのよ」
「そんなことわかってる。最初は俺も驚いた。だけど本当だ」
「お姉さんには言ったの?」
「言ってない。あいつはどうせ信じない。下手すると病院に連れていかれる」
「確かにそうかも」

半信半疑だが、私はその日、実家に泊まることにした。
幽霊でもいい。母に逢ってみたいという気持ちもあった。

そして日暮れ、私は、息をひそめて母を待った。
母の料理は本当に美味しい。
家を離れて都会で暮らして10年。いつも懐かしく思っていた。
父は、一升瓶を横に置き、チビチビと飲み始めた。
「お母さん、遅いね」と言っても、返事はない。

やがて父は立ち上がり、ふらふらと台所に行き、食器棚から皿と小鉢を盆にのせた。
そしてそれらをテーブルに並べて、箸を動かし始めた。
空の皿をつつき、空の小鉢から何かを掬い、まるでままごとみたいに食べる真似をした。
「お父さん、お皿空っぽだよ」
私の声はまるで届いていない。父は黙々と食べる真似を続け、満足そうに腹をさすり、皿を台所に持って行った。
鼻歌まじりに皿を洗う父を見て、私は無性に泣きたくなった。
父は寂しいのだ。ひとりの夜が、たまらなく寂しいのだ。

しばらくして、私は仕事を辞めて実家に戻った。
父は、ちゃんと夕飯を食べるようになった。
「お父さん、美味しい?」
「ああ、だけどお母さんの味には、まだ遠いな」
「そうかなあ。割と近いと思うけど」
「いや、まだまだだ」
父は、台所に向かって目配せをした。
まるでそこに、母がいるように。


にほんブログ村
nice!(9)  コメント(10)