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患者が愛した男 [公募]

あの人に会えると思ったんですよ。
現世では結ばれなかったあの人と、あの世で一緒になりたかった。
だけどあの人は、迎えに来てはくれませんでした。
お花畑が見えたんです。きれいな川が流れていて、あれが恐らく、三途の川だったのでしょう。
向こう岸で手招きしたのは、あの人ではありませんでした。
白い着物を着た女の人でした。
よく見たらその人は、あの人の奥様じゃありませんか。
物凄く怖い顔で、手招きをするのです。
「早く渡っていらっしゃいな。閻魔様とかけ合って地獄に落としてもらうから」
まるで鬼のような形相なのです。私、すっかり怖くなって引き返してしまいました。
それで気がついたらこの病院のベッドの上だったというわけです。

一命をとりとめた患者は、白髪の老婆だが、仕草や話し方がどこか艶めかしい。
若いころはさぞかし美人だっただろう。点滴を替えながら、私は患者に話しかけた。
「あの人って、誰のことですか?」
「私が生涯で、唯一愛した男ですよ。もう三十年も前の話ですけどね」
「奥様がいる方だったんですね」
「そう。今でいう不倫です。でもね、看護師さん、絶対に私の方が愛されていましたよ。ええ、それは間違いないわ」
患者は、自信たっぷりに言い切った。

その患者が運ばれてきたのは、三日前のことだった。
信号待ちの交差点で心臓麻痺を起こして倒れた。
幸い人通りが多く、処置が早かったために一命を取り留めることが出来た。
物腰が柔らかく、丁寧な言葉遣いの患者に好印象を持った。
あの不倫の話を聞くまでは。

私の父は不倫をしていた。母は随分と泣いていたし、そのせいで、ひどく辛い最期を迎えた。
母は死んでも父と不倫相手を許さないだろうし、それは私も同じだ。
あの患者が、昔の不倫を美しい究極の愛だと語るたびに、吐き気が込み上げるほどの嫌悪を感じたが、ベテランナースとして普通に接した。
患者に対しては、分け隔てなく誠心誠意尽くすのが私たちの仕事だ。

患者には、身内はいなかった。誰も見舞いに来ない寂しい女だった。
「ご両親は健在なの?」
朝の血圧を測っているときに、不意に聞かれた。細い腕が微かに動いた。
「母はとっくに亡くなりました。私が十八のときです。父は三年前に、この病院で看取りました」
「ご結婚は?」
「していません。たぶん、もうしません。両親の幸せな姿を見て育たなかったから、結婚に対する夢も希望も持ったことはありません」
「そうね。愛の形って結婚だけじゃないもの。結婚にとらわれることなんてないのよ」
患者は、また三十年前の不倫のことでも思い出したのか、うっとりしたような顔つきになった。
私はさっさと血圧計を片づけて病室を後にした。これ以上話すと、爆発しそうだった。

患者の退院が決まった。
薬や、通院の予定表を持って病室に行くと、夕焼けを見ながら患者が泣いていた。
「死にたかった。どうして私、助かってしまったのでしょう」
「そんなこと言っちゃだめですよ。生きたくても生きられない人だっているんだから」
私の母のように、という言葉は呑み込んだ。

「看護師さん、私を殺してくれませんか。点滴に何かの薬を混ぜれば、きっと誰も気づかない。ねえ看護師さん、あなただって、私を殺したいでしょう?」
患者は拝むように手を合わせ、私のネームプレートに視線を移した。

ああ、やはりそうかと、私は思った。三十年前に父と不倫したあげく、私の母を刺殺した女だ。
ありふれた名前だったから確証はなかったけれど、話すうちに芽生える黒い感情の理由がやっとわかった。
この女はきっと、最初から知っていたのだ。私が、愛した男の娘であることを。

「バカじゃないの。死んでも父のところへなんか行けないわ。あなたは地獄に落ちるのよ。父が母よりあなたを愛していたなんて、本気で思ってる? ただの遊びだった、許してくれって、墓の前で泣いていたわ。私はあなたを殺さない。あなたとは違うもの」

きれいな夕陽を隠すように、カーテンをピシャリと閉めて、私は速足で病室を出た。
もう会うことはないだろう。

彼岸花が、急斜面を赤く染めている。高台の墓には、父と母が仲良く眠っている。
父が本当に愛していたのが誰だったかなんて、そんなことはどうでもいい。
私は手を合わせ、あの女が天国に行かないことだけを祈った。

*****

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。課題は「彼岸」です。
最近は佳作にも選ばれなくなりました。
最優秀作品、面白かった。こういうのを私も書きたかったな。


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