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バニラの香り

先生の髪は、バニラの香りがした。
髪を耳に掛けるときの白い指と、その度香る甘い匂いに、僕はいつもドキドキしていた。

先生は、僕が小学5年生のときの家庭教師だ。
成績がすこぶる悪かった僕を見かねて、母が雇った女子大生だ。
先生の教え方は丁寧でとてもわかりやすかった。
覚えの悪い僕を見放すことなく、わかるまで何度も説明してくれた。
そのおかげでずいぶん成績が上がり、ある日とうとう算数で100点を取った。

「頑張ったね。ご褒美に、何かご馳走しようか」
先生が言った。
僕はとび上がるほど嬉しかったけど、ひとつ問題があった。
僕の母は栄養士の仕事をしていて、食べ物に関してはうるさかった。
食事は、おやつを含め母の手作りの物しか食べたことがない。
外食なんてしたことがない。絶対に許してくれるはずがない。

僕は、母が仕事の土曜日を選び、先生には「お母さんが許してくれた」と嘘をついた。
そして母が用意した弁当をこっそり捨てて、先生との待ち合わせ場所に向かった。
先生が連れて行ってくれたのは、スイーツバイキングの店だった。
「先生はスイーツが大好きなの。好きなだけ食べていいのよ」
ずらりと並んだ色とりどりのケーキやプリンやカラフルなお菓子。
おやつはおからクッキーか野菜が入った蒸しパンだった僕は、初めて見るおしゃれなケーキに胸が高鳴った。

「甘いものは、脳の働きにもいいのよ」
先生はそう言いながら、お皿いっぱいのケーキを美味しそうに食べた。
そうか。僕は甘いものを食べなかったから、脳に栄養が行かなくて成績が悪かったんだ。そんなことまで思った。

とにかく手当たり次第に食べた。
ジュースも飲んだし、アイスも食べた。
美味しくて楽しくて脳が活性化されるなんて、こんな素晴らしいことはない。
僕はとても満足して家に帰った。

その夜のことだ。
僕は急激な腹痛でのたうち回った。
食べ慣れないものを食べたせいか、母の弁当を捨てた罰が当たったのか、僕は救急車で運ばれた。
けっきょくは、ただの食べ過ぎだった。
母に問い詰められて、僕は先生とスイーツバイキングに行ったことを話した。
母は「情けない」と泣いた。
弁当を捨てたこともばれて、母は過去最高に激怒した。
「先生は悪くない」と泣きながら訴えたけど、先生は解雇された。
僕の甘い甘い初恋は、後ろめたさと共に終わった。

あれから数年。僕は高校生になった。
先生に基礎をしっかり学んだおかげか、そこそこいい高校に入れた。
友達と渡り廊下を歩いていると、前から歩いてきた先生に声をかけられた。
「M君じゃない?」
女性の先生は、懐かしそうに目を細めた。
「憶えてない? 君が5年生の時に家庭教師だった…」
バニラの匂いが鼻をかすめた。えっ? 先生? 
僕は目を疑った。
先生の体は、あの頃の2倍、いや3倍にもなっている。
「私、ちょっと太ったから分からなかったかな?」

先生、スイーツ食べ過ぎだよ。
だけど先生は、とても幸せそうに笑いながら通り過ぎた。
甘い香りを残して。


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