SSブログ

人間らしい暮らし

テレビを見るのはやめた。
新聞も読まない。
ネットの情報も一切入れない。
余計なことを知らずに済むし、フェイクニュースに惑わされることもない。
快適だ。考えることは、今日の天気と食事のことだけ。
きっとこれが人間本来のあり方なのだ。
時代の流れを読むよりも、雲の流れを眺める方がいい。
株の変動に気を揉むよりも、潮の満ち引きを感じる方がいい。

ここに来てから、私は本当に自由だ。
誰にも会わないから、髭がのび放題でも気にしない。
釣りをしたり、森を歩いたり、こんなにのんびり過ごすのは久しぶりだ。
ああ、星がきれいだ。

おや、何かがこちらに向かってくる。
船だ。船が来た。


男は救出された。
クルーズ船が難破して、男が無人島にたどり着いたのは半年前だ。
最初は戸惑い、絶望に苦しんだ。
しかし、数年ぶりの深い眠りと自然の目覚めに、男はひどく感動した。
生き返ったような気がした。
それから男は、島の暮らしを楽しんだ。
火を熾し、雨水をためて、木の実を取って食べた。
こんな暮らしが自分に合っていることを、男は初めて知った。

男は、大企業の社長であった。
会社に戻ると、山のような仕事が待っていた。
「社長、この書類に目を通してください」
「社長、本日の予定ですが」
「社長、例の案件のことでX商事様がお見えです」
忙しいのに、男はすっかりやる気を失くしている。
迎えに行かないと会社に来ないし、会議中にぼんやり窓の外を見ている。
役員たちは、何とかせねばと会議を重ね、ひとつの結論を出した。

「無人島に支社を建てましょう。社長はそこで仕事をしていただきましょう」
役員たちは早急に動いた。無人島を買い、事務所を建てた。
自家発電で電気を引き、井戸を掘り、ネット環境を整えた。
「さあ社長、パソコンがあれば仕事に支障はありません。食料と飲料水は週に一度、自家用ジェット機で運ばせます。医者も常備させましょう。ところで明日の予定ですが」
秘書が手帳をめくる。
「午後からA社の理事長が、支社開設のお祝いに見えます。その後は、ネットで会議に参加していただきます。夜にはアメリカB社のサム氏と会食です。ご心配なく。こちらの島にシェフを手配いたします」
男が口をはさむ間もなく秘書は続ける。
「それから社長、テレビの取材が入っています。こだわり社長の無人島生活という企画です。詳細が決まりましたらご報告いたします。では、本日はゆっくりお過ごしください」

「ちがうんだよな」
男はジャグジーバスに身を沈め、細い窓から星を見た。
「もはや、無人島じゃないだろ、ここ」


にほんブログ村
nice!(11)  コメント(8)