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 [ホラー]

それは、特別な鏡だった。
もう歩くことも出来なくなってしまった姉から、就職祝いだと言って手渡された。
子供のころから身体が弱かった姉は、まだ若いのに髪は白く、肌には全く艶がない。
痩せてくぼんだ目は、まるで輝きを失っている。

「お姉さん、これは大事な鏡でしょう。もらえないわよ」
「いいのよ。私はもう、鏡を見たくないの。彩ちゃんに使ってもらえた嬉しいわ」
白いスズランが描かれた、スタンド式の鏡だった。
それは、ひとり暮らしを始めたばかりのリビングに、とてもよく馴染んだ。

鏡に顔を映すと、驚くほどきれいに映った。
私、こんなに美人だったかしら?
まるで加工修正でもしたようにきれいに映る。
だけど決して不自然ではなく、もしかしたらこれが本当の私の顔だと思えるようになった。
暇さえあれば鏡を見た。もちろん毎朝の化粧も、その鏡を使った。
きれいに映れば自信にも繋がる。仕事も順調、毎日が楽しい。
いつもその鏡を持ち歩き、他の鏡は極力見ないことにした。

ある朝、上司から言われた。
「あなた、疲れた顔をしてるわね」
えっ? こんなにイキイキと仕事をしているのに、何を言っているのだろう。
あるときは同僚に言われた。
「彩ちゃん、疲れてる? 目の下にクマが出来てる」
はあ? あなたの方がよっぽど睡眠不足の顔してるけど?
同僚は毎日のように言う。
「こめかみのあたりにシミがあるよ。美白した方がよくない?」
「唇がカサカサだよ」
「髪の毛がうねってるね。寝ぐせ?」
どうして?
張りのあるきれいな肌なのに。
つやつやの唇なのに。
真っ直ぐできれいな髪なのに。
やっかみかしら? 女友達って怖い。

あるとき、給湯室の中から声が聞こえた。
「彩ちゃんってさ、老けたよね」
「うん。この前白髪見つけちゃった」
「若いのに皺も多くない?」
「可哀想。苦労してるのかな?」
「なんかさあ、日増しに衰えてる気がしない?」

ひどい。なぜそんな悪口を言われなければいけないの?
泣きながらトイレに駆け込んで、鏡を見て呆然とした。
「誰、このおばさん」
まるで20年後の自分を見ているようだった。
いや、違う。トイレの鏡がおかしい。この鏡が嘘つきだ。
私は、それっきり会社に行けなくなった。

家に帰ると、両親が驚いた顔で私を迎えた。
「よほど苦労したのね。こんなに老けて」
ああ、嘘つきなのは、あの鏡の方だった。

急に怖くなって、姉に鏡を返した。
「お姉さん、この鏡、おかしいわ」
姉は、ゆっくり起き上がると、受け取った鏡を思い切り壁に投げつけた。
鏡が割れ、粉々になったガラスの破片から、きらきら光る小さな粒子が舞い上がった。
姉はすかさず、その粒子を浴びるように身体を伸ばした。
「お姉さん、危ないわ。破片を踏んでる」
姉は血だらけになった足や膝を気にもせず、笑いながら振り返った。
その頬はふっくらとピンク色に染まり、肌は艶を取り戻し、髪はたちまち黒くなった。
まるで病気になる前の姉に戻ったようだ。

「お姉さん、これはいったい……?」
「彩ちゃんの健康な細胞をもらったの。ごめんね。だけどいいわよね、このくらい」
姉がふっくらした紅い唇で笑った。
私は、まるで病人のような顔で立ち尽くした。

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やっぱり暑い夏はホラーだね。
え、まだ夏じゃない? 5月? うそだ~

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