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MJに5時 [公募]

懐かしい駅で電車を降りた。この小さな駅には思い出がたくさん詰まっている。

書置きを残して家を出てきた。
二人の子供はとうに巣立ち、定年を迎えた夫との暮らしに疲れていた。
趣味もない夫は、急にヒマになったものだから余計なことばかりする。
家事のペースが乱れて困る。束縛されるわけではないけれど、思うように外出できない。
贅沢な悩みなのかもしれないけれど、ちょっと限界に来ていた。

ホームには、セーラー服の高校生が二人、スマホを見ながら電車を待っている。
もう四十年も前だけど、私もこの子たちと同じ女子高生だった。
あの頃と変わっていない制服に、懐かしさが二倍になった。
高校の三年間、この駅で降りて女子高へ通った。
学校への坂道は、毎朝同じ制服の少女たちで埋め尽くされた。
すみれ色の制服だから、通称「すみれ坂」なんて呼ばれていた。

駅はすっかり新しくなって、コーヒースタンドとコンビニが併設され、私にとって最大の必需品だった伝言板が消えていた。
伝言板を使う人など十年以上前から皆無だ。
だけど携帯電話もポケベルもない時代、私たちにとって伝言板はとても大切な連絡手段だった。

あの頃私は、秘密の恋をしていた。友達にも、もちろん親にも言えない秘密の恋だ。
恋の相手は国語の先生だった。
私が書いた詩を先生が褒めてくれて、嬉しくて詩を書いては先生に見せに行った。
そのうちに、どうしようもなく好きになって、先生も同じ気持ちだと知って、私たちは恋人同士になった。

連絡はいつも伝言板を使った。
二人だけにわかる暗号で、店や場所を示し、そこで落ち合う。
大概は隣の駅か、二つ先の駅にある店を使った。
デパートのトイレで着替えて、下手な化粧をした。
先生とは、きっちり一時間お喋りをして、遅くならないうちに家に帰った。
教師という立場上、先生もたくさんの我慢をしていたのだと思う。
別れ際、先生は決まって同じことを言った。
「早く卒業してくれよ」
そして繋いだ手を放して、「おやすみ」と手を振る。
最高に切なくて、最高に幸せだった。

坂を上がると息が切れた。四十年のブランクは大きい。
テスト期間中で下校時間が早いのか、高校はひっそりしていた。
数年前に中高一貫校になり、校舎はモダンに建て替えられている。
ぐるりと一周しても、昔の面影は欠片もない。
先生との思い出が、破片でも残っていたら泣くかもしれないと思っていたのに、全然なかった。
木枯らしに背中を押されて坂を下り、駅で次の電車を待った。

誰もいない待合室でふと横を見ると、日帰り旅行のパンフレットの後ろに、伝言板がぼんやり見えた。ひっそりと、私のために残されたような古びた伝言板だ。
近づいてみると、一行だけ伝言が書いてある。

『MJに5時 アキ』

ドキリとした。アキというのは先生の名前だ。
アキラだから「アキ」、私の名前は冬子だから「フユ」。
それが二人だけに解る秘密の名前だった。
MJは、二つ先の駅にある喫茶店だ。マイケルジャクソンばかり流れていたから、「MJ」と呼んでいた。先生と二人でよく行った想い出の店だ。
行ってみたいと呟くと、伝言板は煙のように消えてしまった。

二つ目の駅で降りて線路沿いを歩いて五分。
レンガ造りの小さな店は、今も変わらずそこにあった。店の名前も変わっていない。
重い扉を開くと、聞こえてきたのはマイケルじゃなくてテイラースイフト。
マスターもすっかり代替わりしている。それでもコーヒーの香りは昔のままだ。

奥の席に、見覚えのあるセーターを見つけた。いつも私と先生が座っていた席だ。
ゆっくり近づいて、大きな背中に声をかけた。
「先生」

ゆっくり振り向いたその人は、照れたように頭をかいた。
「今更先生なんて、懐かしい呼び方するなよ」
テーブルには、マンデリンと文庫本。
お腹が出て、すっかりおじさんになった先生は、私の夫だ。卒業して二年後に結婚した。

「あなた、どうしてここに?」
「君が書置きを残したからだろう」
夫がポケットから取り出したメモには、『MJに5時 フユ』と書いてあった。
不思議だ。そんなメモを残した覚えはない。だけど久しぶりに、大きな背中にときめいた。
「ねえ、今日何食べたい?」
「何でもいいよ。一緒にカレーでも作る?」
「余計に時間がかかるからいいわ」

一緒にいるだけで楽しかったあの頃を、長い間忘れていた。
すっかり日が暮れた駅で、二人並んで電車を待った。
同じ家に帰る幸せが、胸に染みる夜だった。

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公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「駅」でした。
いくつものドラマが書けそうなものですが、それが却って難しい。
最優秀作品は、アイデアはすごいなと思いましたが、ごめんなさい、ラストがよくわからなかった。5枚に収めるには難しい話だったのかも。

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