SSブログ

雨上がりの街

5月最後の土曜日、滝のような雨が降って、汚れた街を洗い流してくれた。
あじさいの葉が色鮮やかに輝き、遠くに大きな虹が見えた。
なんて美しい。街が生まれ変わったみたい。
散歩の途中で雨に降られて、カフェの軒先を借りている。
小さいけれどきれいな庭があって、花がたくさん咲いている。
とても素敵なカフェ。
居心地がよくて、雨が止んだのに動けない。
客でもないのに迷惑かしら。
だけどね、もう少しだけ余韻に浸っていたいの。

           *
「ちょっと、あの女、店の前にずっといるけど、まさか例の地上げ屋の仲間かね」
「ええ?普通の主婦に見えるけど。考え過ぎですよ、お義母さん」
「向こうも手を替え品を替え、いろいろ考えてくるからね、用心するに越したことはないよ」
「でもお義母さん、最近売り上げも落ちてるし、ショッピングモールのテナントに入るのも悪くないかもしれませんよ」
「冗談じゃない。この店は庭の花を愛でながら、美味しいコーヒーを飲むのが売りなんだ。テナントなんてごめんだよ」
「はいはい、わかりました」

           *
可愛いピンクのバラに、色とりどりのパンジー。
心が洗われる。慌ただしい日常を忘れられる。
あら、蝶々がひらひら。蝶なんて最近見ていなかった。
きっと目がいかないだけで、こうして舞い続けているのだろう。
生活に余裕がないと、当たり前のことを忘れてしまう。
テントウムシにカタツムリ。なんて可愛い虫たちでしょう。
ひえっ!足元にナメクジが! もう、あっちへ行って。
あら、私ったら、せっかく心が洗われたのにダメね。
カタツムリは可愛くて、ナメクジは気持ち悪いだなんて、そんなのいけない。
子供にも差別はダメって言っているのに。
今日から私、この雨上りの風景のように優しくなろう。
ナメクジだってハエだって、みんな同じ生き物じゃないの。

            *
「ねえ、あの女まだいるよ。ときどき笑って気持ち悪いね。やっぱり地上げ屋だよ。営業妨害しているんだよ」
「そうかしら。何だか間抜けな顔してるけど」
「ちょっとあんた、行ってきてよ」
「えっ?わたしが?」
「いずれこの店のオーナーになるんだろう。さっさと行きな。地上げ屋だったら塩撒いて追い返してやりな。ほら、塩持ってさっさと行く」
「はあい」

            *
さて、そろそろ帰ろう。夕飯は何にしよう。
やっぱり慌ただしい日常からは、逃れられそうもない。
いやだ、店の人がチラチラ見てる。あっ、ひとり店から出てきた。
「あっ、すみません。雨宿りしていたらお庭があんまり素敵で、ついつい長居しちゃいました」
「あら、そうでしたの。構いませんのよ」
怒ってない。感じの良い店員さんだ。
「いいお店ですね。私最近引っ越してきたんです。今度ランチに来ますね」
「ありがとうございます。お待ちしています」
「それ、なんですか? お塩? 何かのおまじないですか?」
「えっ、ああ、これは、その……。ナメクジ退治です」
店員は塩をごっそりつかむと、私の足元にいたナメクジの上に、どさりとかけた。
優しい顔して容赦ない。
だけど食べ物商売だから、このくらい徹底していた方がいいのかも。
それに、やっぱり気持ち悪いもの、ナメクジは。
さあ、帰ろう。あら、汚い水たまり。雨って本当に嫌ね。

            *
「あんた、なかなかやるね。あっさり引き下がったじゃないの」
「ええ、もう大丈夫。きっちり退治してきましたから」

nice!(11)  コメント(4) 

河原でバーベキュー [コメディー]

むかしむかしのお話じゃ。
10人の男女が、河原でバーベキューをしておった。
当時「合コン」と呼ばれる行事があってな、これもその一種じゃ。
男女の出会いの場というわけじゃ。

男たちは、ふだんはゲームばっかりしてるのに、いかにも慣れた手つきで水を汲んだりテントを立てたり「君たちは危ないから見てて」などとカッコいいことを言ったりするんじゃ。
女は女で、ふだんは母親任せのくせに、ここぞとばかり野菜を刻んだりするんじゃ。
「いつもやってます。お料理好きなんで」とか言いながら、上手く切れないと包丁のせいにするんじゃ。

腹も満たされ、数人のカップルも出来て、いい感じになってきたときじゃった。
突然雨が降って来たんじゃ。
そりゃあもう、バケツをひっくり返すような雨じゃった。
バケツと言うのは、水を汲んだりする道具じゃな。
おじいさんやおばあさんの家にはまだあるかもしれんから、今度行ったら見せてもらうとよいじゃろう。
さて、話を戻そう。
雨のせいで、川の水はみるみる増える。
わずか10分ほどで、10人は川の中州に取り残されてしまったんじゃ。

見よう見まねで立てたテントはあっという間に流され、勢いよく流れる川は、まるで恐ろしい宇宙怪獣のようにすべてを飲み込むんじゃ。
10人は木につかまって何とか耐えたが、足元まで水が迫ってきたんじゃ。
当時の人間にはテレパシーがなかったから、スマートフォンというツールを使って助けを呼んだんじゃ。しかし助けはなかなか来ない。
強風でヘリが飛ばせない上に、川の流れが早すぎて、近づけないんじゃ。
瞬間移動すればいいのにって? だから言ったじゃろう。
当時の人間には、テレパシーがないんじゃよ。

取り残された10人の男女は、もうカッコつけていられない。
自分だけでも助かりたくて、木に登る男。
こんな時でもブランドバッグだけは守ろうと必死で抱える女。
こんな時でも動画を撮ってネットにあげるやつ。「こりゃあ、百万再生いくぞ」と興奮しとったそうじゃ。

みんながそんなふうだから、ようやく救急隊員がやってきて
「女性から先に救助します」と言ったとき、
「なんだよ、男女平等って言いながら、女が先かよ。こんなときばかり」
「ぼく、体調が悪いので一番先じゃダメですか」
「お前らうるせえ。神代の昔から女の方がかよわいって決まってるんだよ。お前らみたいな小さい男と、二度と合コンするもんか」
まあ、なんというか。修羅場じゃな。
そういった様子を録画した動画が、歴史ライブラリーに保管してあるから、今度見に行くといいじゃろう。男女の本質がよくわかる。

さて、無事に助け出された10人は、それから二度と逢うことはなかったそうじゃ。
しかし女は逞しいもんじゃのう。
その数日後に、再び合コンをしたそうじゃ。
相手は、あの時助けてくれた5人の救急隊員だったそうじゃ。
めでたしめでたし。

さあ、わしの話はこれで終わりじゃ。
みんな気を付けて帰りなさい……はや!もういない。
味気ないな。テレポーテーション。
さて、伝統語りべ教室も終わったし、異星人交流パーティでも行くか。
天の川でバーベキューだ。可愛い子いるかな。
あ、時代は変わっても、やってることは変わらないかも。


nice!(10)  コメント(6) 

祝!!1000記事! [コメディー]

「うちのオカンがな、好きなブログがあるんやけど、どうしても名前が思い出せないって言うんや」

「そうか。ほな一緒に考えたるわ。そのブログの特徴言うてみて」

「オカンが言うにはな、そのブログは、最近1,000記事を達成したらしいんや」

「ほなそれは、りんのショートストーリーやないか。りんのショートストーリーは、この話でちょうど1000記事や」

「おれも、りんのショートストーリーやと思ったんやけどな、オカンが言うには、そのブログを書いてるブロガーさんは、若い女性やっちゅうねん」

「ほな、りんのショートストーリーと違うな。りんのショートストーリーのブロガーさんは、年齢訊くとめっちゃキレるらしいで。若かったらキレへんやろ。ほな、他の特徴言うてみて」

「オカンが言うにはな、そのブログは、カテゴリー分けが、めちゃくちゃ雑やって言うねん」

「ほなそれは、りんのショートストーリーやないか。あのブロガーさんはカテゴリー選択が面倒で、やたらと未分類が多いらしいで」

「おれも、りんのショートストーリーやと思ったんやけどな、オカンが言うには、そのブログを読んで人生観が変わった言うねん」

「ほな、りんのショートストーリーと違うな。りんのショートストーリーに人生観変えるような話、1個もないで。1000個も話書いてるのに、1個もない。他に何か特徴ないの?」

「オカンが言うにはな、そのブログを朗読してくれる人がおるらしいんや」

「ほなそれは、りんのショートストーリーやないか。もぐらさんとはるさんっちゅうブロガーさんが、朗読してくれてるらしいで。嬉しくて、朗読してもらった夜は酒が旨いって言うてたで」

「おれも、りんのショートストーリーやと思ったんやけどな、オカンが言うには、そのブログは世界中にファンがいて、ジャスティンビーバーも見ているって言うねん」

「ピコ太郎やないかい! もうええわ。いい加減にせいや」


…というわけで、ミルクボーイの漫才風にしてみました。

おかげさまで、りんのショートストーリー、1,000記事を達成いたしました。
いつも読んでくださってありがとうございます。
皆様のおかげで続けることが出来ました。
本来なら、帝国ホテルを貸し切って盛大にパーティでもやりたいところですが、3蜜になってしまうので断念しました。(うそです。そんな財力ありません)

これで一区切り、とは思わずに、まだまだ続けていきますよ。(ネタ切れ注意!)
これからも、よろしくお願いします。


nice!(10)  コメント(12) 

ロッカー族 [公募]

スクールカーストの底辺を知っているかな? 
それは僕だよ。ロッカー族って呼ばれている。
授業の前に、教室の片隅にあるロッカーに入れられて、授業が終わるまでじっと息を潜めている。一緒に授業を受けることを許されない。それがロッカー族だ。

先生は僕がいないことに気付いても「また保健室か」と呑気な声で言いながら、普通に授業を始める。ひどい話だと思うだろう。
だけど実は、そうでもないんだよ。
授業が終われば出してもらえるし、暴れたり、声を出したりしなければ殴られることもない。
授業はちゃんと聞こえるから勉強が遅れることはないし、ロッカーの中は、狭くてちょっと臭いけど落ち着く。
ここは平和だ。恐喝されたりカバンに落書きをされるより、ずっとずっとマシだ。
こういう遊びが流行ってくれたことに、僕はむしろ感謝している。

それは、とても麗らかな午後だった。
いつものように「いいか、喋るんじゃねーぞ」と凄まれて、ロッカーに入れられた。
授業は日本史で、のらりくらりと話す先生だから、聞いているうちに眠くなった。
立ったまま寝ることにも、割と慣れてきたところだ。
ロッカーの中の暗さも丁度よく、僕はすっかり眠ってしまった。

目が覚めると、教室はやけに静かだった。
ホームルームも終わって、みんな帰ってしまったのだろうか。
それなら勝手に出ても殴られることはないだろう。僕は鉄の扉を開けて外に出た。
誰もいない。時計の針は午後二時三十分を指している。
まだ下校時間じゃないのに、みんなどこへ行ったのだろう。
大きく開いた窓からは、砂埃を含んだ風が舞い込んでいる。

校舎の中を歩いてみたが、先生も生徒もいない。
一人残らず消えてしまったように静まり返っている。
校庭に出て空を見上げると、見たこともない巨大な雲が渦巻いていた。
僕がロッカーの中で眠っている間に、きっと何か大きな災害が起こったのだ。
それでみんなは、どこか安全な場所に避難したに違いない。

僕はとりあえず、家に帰ることにした。家に帰れば何か分かるはずだ。
歩き出してすぐ異変に気付いた。誰もいない。
商店街も公園も、車道も歩道も、誰一人歩いていない。

「ナオキ」と、突然名前を呼ばれた。振り向くと、高校生の姉ちゃんが立っていた。
「姉ちゃん、これ、どういうことだよ」
「私も訳が分からないんだけど、空から来た何かが、人間たちを吸い込んでいったの。巨大な掃除機で吸われるみたいに、ひとり残らず窓から空に飛んで行ったのよ」
「姉ちゃんは、どうして無事だったの?」
「あたしは、ロッカーの中にいたから。ロッカーの隙間から、みんなが吸われていくのを見ていたのよ」

そうか、姉ちゃんも僕と同じロッカー族だったのか。
僕たちは、並んで歩いた。車道には、フロントガラスが割れた空っぽの車が列をなしている。
本当に人間だけがいなくなった。何のために、何の目的で? 
考えても無駄なことだ。
この街に、いや、ひょっとしたらこの地球上に、残されたのは僕たちだけかもしれない。

「ナオキ、ユミ」
突然名前を呼ばれて振り向くと、お母さんが立っていた。
「よかった。あなたたち無事だったのね」
「お母さんこそ、大丈夫だったの?」
「ええ、実はお母さん、パート先で苛めに遭っていてね、休憩時間をロッカーで過ごしていたの。おかげで助かったけどね」
なんだ、お母さんもロッカー族だったのか。きっと辛かっただろうね。だけど安心した。大人がいれば、きっと何とかなる。

「おーい」
道路の向こう側で、僕たちを呼んだのはお父さんだ。
お父さんが手を振りながら、横断歩道を渡ってくる。
「おまえたち、無事だったのか」
「うん。お父さんもロッカーの中にいたの?」
「ああ、実は仕事でミスをして、ロッカーの中で反省させられていたんだ」
すごいパワハラだ。だけどおかげで助かった。僕たち家族は全員無事だ。

「とりあえず、家に帰って情報収集だ」
「パソコン使えるかな」
「電気とガスはどうかしらね。お料理作れるかしら」
「お腹空いたよ」

この世界でいったい何が起こっていて、この先どうなるかなんてまるで分からない。
だけどこれだけは言える。
「僕たち、もうロッカーに閉じ込められることはないんだね」

*******

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「ロッカー」でした。
こういう話は書いていて楽しいです。だけど選ばれるかどうかは微妙だな、と思いながら応募しました。
今月の課題は「霊」です。
ネコのレイちゃんの力を借りようかな。「れい」だけに(笑)

nice!(7)  コメント(4) 

こどもの国 [ファンタジー]

ママと一緒に遊園地にやってきた。パパは仕事で来られなかった。
パパはいつも仕事ばかり。それでも遊園地は楽しかった。
ジェットコースターやお化け屋敷、ゴーカートとビックリハウス。
ふたりではしゃいで、あっという間に時間が過ぎた。
夕方になって、ママのスマホに電話が入った。
「ごめんね、ちょっと電話をしてくるから、ここで待っててね」
噴水前のベンチに座って、僕はママを待っていた。

ママはなかなか帰ってこない。
そのうちに園内が暗くなって、閉園を告げる音楽が流れた。
僕は不安になってママを探したけれど、どこにもいない。
「きみ、迷子?」
不意に同じ年くらいの男の子に声をかけられた。
「迷子じゃないよ。ママが戻ってこないんだ」
「ああ、捨てられたのか。可哀想に」
「ちがうよ」
「おいらと一緒においでよ。ここにいたら悪い大人に連れていかれるよ」
男の子がピューっと指笛を鳴らすと、メリーゴーランドの白馬が2頭、こっちにむかって走ってきた。
「さあ、早く乗って。遊園地が閉まっちゃうよ」
訳が分からないまま馬にまたがると、馬はそのまま暗闇に向かって走り出した。
次の瞬間、まぶしいくらいの光の世界に僕はいた。

「ここはどこ?」
「こどもの国だよ」
「こどもの国?」
「子供しかいないんだ。大人はひとりもいない。みんな自由さ。誰にも叱られないし、誰にも裏切られることはない」
そこには、たくさんの子供がいた。寝そべって、ポテトチップスを食べながらゲームをしたり、泥んこになって走り回ったり、ズボンで手を拭いたり、怒られそうなことばかりしている。
「みんな君のように、親に捨てられた子供なんだ」
「僕、捨てられたの、やっぱり?」
「そうだよ。パパは仕事ばかり、ママは自由になりたかったんだ」
僕より小さな子供が、「一緒にゲームやろう」と裾をつかんだ。
お菓子の山とハンバーガー。嫌いな野菜は食べなくていい。
僕はだんだん、この国の自由さに慣れていった。
好きなアニメを大きい音で見ても叱られない。
服を汚してナポリタンを食べてもへっちゃら。
勉強しなくてもいいし、誰かのおもちゃを取っても怒られない。

ある日僕は不思議に思って、男の子に尋ねた。
「この食べ物やおもちゃは、いったい誰が買ってくるの?」
「ああ、大人がいる世界に行って、盗んでくるのさ。おいらがメリーゴーランドの馬をちょいと失敬したみたいにね」
「ええ、それって、泥棒じゃないか」
「うん、まあそうだね。でも気にすることはないさ。この国に法律はないんだからさ」
「でも、僕のパパは警察官なんだ。犯罪だけは犯すなって言われて育ったんだ」
「ふうん。もう遅いな。だって盗んだものを食べたんだから同罪だ。それに君だって、友達のおもちゃを取ったじゃないか。それって立派な窃盗じゃないのかな」
僕は思わず泣き崩れた。
「まあ、そのうち慣れるさ。気にするな」

それから僕は、何も食べられなくなった。
「盗んだものを食べても平気なの?」と、みんなに言って、空気を悪くした。
弱い者いじめをする子を制したり、ケンカの仲裁をして煙たがられた。
そしてついに、追い出された。
「あのさ、君がいるとこの国の秩序が乱れるんだよね。出て行ってくれるかな」
乗ってきた馬にまたがり、僕は暗闇に向かって走った。どこでもいい。大人がいて、ちゃんと叱ってくれる世界に戻りたい。

気が付くと僕は、遊園地のメリーゴーランドの馬に乗っていた。
楽しい音楽に包まれて、ぐるぐる回っていた。
ママが手を振っている。パパもいる。
夢を見ていたのだろうか。

メリーゴーランドが止まるとママが駆け寄ってきた。
「捜したのよ。噴水のベンチにいなさいって言ったのに、本当に落ち着きがない子ね」
「まあ、見つかったんだからいいじゃないか」
パパは、仕事が早く終わって合流したらしい。あの時の電話はパパからだったんだ。

3人で、観覧車に乗った。はしゃぎすぎてまた叱られた。
天辺から見下ろす園内は、イルミネーションがきれいだった。
「また来ようね、こどもの国」とママが言った。
「こどもの国?」
「この遊園地の名前よ。こどもの国だけど、大人も子供楽しめる素敵な遊園地ね」
そうか。やっぱり、子供だけじゃだめだよね。

nice!(7)  コメント(6) 

策略

買い物の帰りにペットショップに寄った。
娘の美緒が行きたいと、せがんだからだ。
一人っ子の美緒は犬を飼いたがっていたが、アパートだし、そんな余裕もないからと言い聞かせ、それなら「見るだけ」と言うので連れてきた。

義父が急逝して、夫はつぶれそうな町工場を継ぐために会社を辞めた。
そこそこ名の通った会社だったから、正直辞めてほしくなかったけれど、義母に弱い夫はあっさり承諾した。
しかも義母は、同居して、私にも家業の手伝いをしてほしいというニュアンスのことを言ってきた。
「美緒を転校させるのは可哀そう」というのを口実に、何とか同居は免れた。
夫は車で20分の工場兼実家まで、毎日通っている。

「家を買っちゃえばよかったのよ。前に見に行った建て売り住宅、すごく良かったのにあなたが優柔不断で煮え切らないから他の人に買われちゃったのよ。あのとき家を買ってたら、しつこく同居を迫られることもなかったのに」
「でもまあ…いちおう長男だしね」
夫がへへへと笑う。
押しが弱くて人が良すぎる夫は、絶対に社長には向かない。きっとすぐにつぶれる。
そんな会社で働きたくないし、私はサラリーマンの妻でいたかった。

「ママ、ウサギだったら飼ってもいい?」
美緒が私を見上げた。茶色のウサギが、ケージの中でニンジンを食べている。
「ウサギならアパートでも飼える?」
「そうねえ、帰ってパパに聞いてみようか」
ウサギなら鳴かないし、犬より安いし、考えてもいいかなと思った。

夫が帰るなり、さっそく美緒がまとわりついた。
「パパ、ウサギ飼ってもいい?」
「ウサギ?」
「うん。ママがね、犬はダメだけど、ウサギだったらいいっていうの」
「でもなあ、大きなケージを買わなきゃいけないし、部屋がますます狭くなるよ」
夫が腕組みをした。それもそうだなと思った。
「えー、飼いたいよお」と美緒が食い下がる。

「うーん、おばあちゃんの家だったらな~、犬でもネコでも飼えるんだけどな」
「おばあちゃんの家なら犬も飼えるの?」
「うん。パパが子供のころは、犬を2匹とネコを飼っていたよ」
「えー、いいなあ」
「じゃあさ、美緒、おばあちゃんの家で犬を飼おう。そして週末ごとに会いに行こうよ」
「わーい、美緒、ちゃんとお散歩するよ」

ちょ、ちょっと待って…。何だか話の方向が…。
「美緒が飼いたいのはウサギでしょ」
「犬が飼えるなら犬の方がいい」
「犬を飼ったらさ、毎週土曜日に、俺が美緒を実家に連れて行くよ。おふくろも喜ぶし。ああ、君は来なくてもいいからさ」
「そんなわけにいかないわよ」

美緒はすっかりその気になって
「パパ、明日ペットショップに行こう。美緒ねえ、お気に入りの子がいるの」
と、はしゃいでいる。
まずい、非常にまずい展開だ。実家で飼うと言われたら、反対できない。
週1が週3になり、やがて毎日になるのは目に見えている。

夫がなかなかの策略家で、巧みな交渉術を持つ根っからの商売人であることを知ったのは、私が見事に策略に嵌まり、同居して家業を手伝い始めた後のことだ。
夫は、つぶれかけた会社をわずか半年で立て直したらしい。
義母と美緒と犬の心をがっちり掴み、
「わあ、君のメモは本当に読みやすいな。いつもありがとう」
と、電話番しかできない私の心も、いつの間にか掴んでいる。

不本意ではないけれど、この生活も悪くない。
だってよく考えたら私、社長夫人ですもの。

nice!(6)  コメント(2)