SSブログ

「ただいま」「おかえり」

妻と別れて、アパートで独り暮らしをしている。
年金暮らしの老人だ。
わびしい暮らしの中にも、楽しみはある。
隣から聞こえる微笑ましい会話だ。

隣の部屋は母と娘のふたり暮らしだ。
娘は、まだあどけなさが残る中学生だ。
母親は8時に家を出て4時半に帰ってくる。
娘は部活を終えて5時半に帰る。

「ただいま」
「おかえり」
「お腹空いた。ごはん何?」
「今からカレーを作るところ」
「じゃあ私、ジャガイモ剥くね」

こんな会話が聞こえてくる。何とも幸せだ。
私の家も母だけだった。
もっとも母は夜遅くまで働いていたから、「おかえり」を言うのは私の方だった。
おかずは少なくて、水みたいに薄い味噌汁だったが、今となっては懐かしい。

「部活でレギュラーになれそう」とか、「新しい先生がカッコいい」とか、娘ははしゃぎながら話す。
母親は、どんなに疲れていてもきちんと応える。
ときどき他愛のないことでケンカもするが、夕方にはやはり「ただいま」と「おかえり」が明るい声で聞こえてくる。
素敵な親子だ。

しかしある日、隣の会話が聞こえなくなった。
耳を澄ましても、物音ひとつしない。
どうしたのだろう。旅行でも行ったのだろうか。
気になったが、隣に住んでいるだけで親しいわけではない。
訪ねてみるわけにはいかない。
一週間が過ぎた。カーテンは閉じたままだ。
きっと親戚の法事だ。前に暗い顔で歩いていたのを見かけたことがある。

しかし10日経っても隣の母娘は帰ってこなかった。
私はたまりかねて管理人に尋ねた。
「205号室の方を見かけないのですが、何かご存知ですか?」
「ああ、引っ越しましたよ」
「えっ、引っ越した?」
「ここだけの話ですけどね、部屋に盗聴器が仕掛けられていたんですよ。前のダンナが仕掛けたのかもしれないって、怖がってね。夜中にこっそり引っ越したんですよ。まるで夜逃げみたいにね」

ああ、そういうことか。
寂しいな。あの明るい「ただいま」「おかえり」を聞くことが唯一の楽しみだったのに。
盗聴器が仕掛けられていたなんて……。

どうしてバレたんだ?

nice!(10)  コメント(8)