最期の扉 [短編]
右へ六、左へ四…。ダイヤルを回す私の手を、姉がじっと見ている。
最後の数字を合わせると、カチッと手応えを感じ、重い鉄の扉がゆっくり開いた。
**
春は暖かい風と一緒に、父の訃報を運んできた。この小さなアパートで、父はたったひとりで亡くなった。
知らせを受けた私たち姉妹は、感情をどこかへ置き忘れたように事務的に葬儀や諸々の手続きを終えた。
生きていてもいなくても同じなのだ。父との思い出などかけらもない。
海外赴任が長かった父とは、幼少期から年に一、二度しか顔を合わさず、家にいても難しい顔で仕事をしている姿しか見ていない。
大人になっても何だか苦手で、結婚して家を出てからは、父がいない時を見計らって家に帰ったりしたものだ。
さらに溝を深めたのは、母が死んだ後である。
父は私たちに何の断りもなく、家を処分してしまったのだ。
ひとり暮らしに大きな家は必要ないと、全ての思い出をあっさり捨ててしまった。
私たちは憤慨し、それっきり父との一切の連絡を絶ったのである。
「何もこんな狭いアパートで死ななくてもね。そう思わない?」
葬儀のあと姉が、猫の額という表現がぴったりの小さな庭を見ながら言った。
「そうね。六畳二間に狭い台所。まあ余計な物はいらないんでしょう。そういう人よ」
整然とした和室から、憎らしいほど几帳面な暮らしぶりが伺われた。
「ねえ、ところで、お金ってどうしたと思う?」
姉が遠慮がちに切り出した。父の取引銀行には、老人がひとりで暮らすのに足りる額の金しか入っていなかった。家を売った金や、多額の貯金が他にあるだろうと、姉は言った。
小さな仏壇の横の押入に金庫を見つけた。
このアパートには立派すぎる鉄の金庫だ。
ダイヤル式の鍵を開ける四桁の数字は、文机の引出しから私が見つけた。
慎重にダイヤルを合わせ、私たちは扉を開けた。
***
「開いたわ」ふたり同時に声をあげた。中には漆の箱がひとつ、大切に仕舞われていた。
「何かしら。株券とか入っているのかな」
まるで玉手箱のような箱には、金も証券も、もちろん煙も入っていなかった。
あるのは、輪ゴムでくくられた手紙の束だった。
手紙は、いかにも子供の字で『お父さんへ』と書かれていた。
『おとうさん、らんどせるをありがとう』
『おとうさん、おもちゃをありがとう』
『お父さん、自転車をありがとう』
そして最後の封筒には、キャビネ版の写真が入っていた。笑顔の父を囲むようにたくさんの子供が写っていた。
「何よこれ。お父さんの隠し子?」
「まさか。二十人はいるわ」
「お父さんのこんな顔、見たことないわね」
その時、庭先で「すみません」と、か細い声がした。見ると、化粧っ気のない若い女が軒下から覗いていた。
「お父さん…いえ、小林さんにお線香をあげてもよろしいでしょうか」
女は、近くにある『向日葵園』という養護施設の職員だと名乗った。
「小林さんは、みんなのお父さんでした」
「父が、その施設に行っていたんですか?」
「はい。初めていらしたのは五年前です。最初は老人会の方に無理矢理連れて来られて、とても不機嫌そうでした。だけど子供たちとふれあううちにすごく優しくなられて、毎週のように来てくれるようになったんです。みんなお父さんが大好きでした。おじいちゃんと言ったら怒るので、みんなはお父さんと呼んでいたんです」
女は陽だまりのような顔で笑った。
「たくさんの寄付もいただきました。来るたびに、おもちゃや文房具を持ってきてくれました。どんな言葉でも言い尽くせないくらい、本当に、本当に感謝しています」
女は父の写真に手を合わせ、たくさんの涙を流した。姉と私が流すことのなかった、純粋できれいな涙だった。
夕暮れ、姉は崩れるように縁側に座った。
「何だか悔しいわ。お父さんの最期の扉を開けたのが、娘や孫じゃなくて他人の子なのよ」
「そうね」と私は、手紙を元に戻した。せめて棺に入れてあげたらよかったと、今さらながらに思った。
姉と並んで縁側に座った。
柔らかい風に水仙の花が揺れていた。母が好きな花と知っていたのだろうか。
「お父さんも寂しかったんじゃないかな」
父を避けていたのは私たちの方だった。扉を閉ざしていたのは、私たちの方だった。
姉と私は、肩を寄せ合って泣いた。父の訃報を聞いてから、初めて流す涙だった。
********************************
フェリシモ文学賞「ひらく」に応募して、落選だった作品です。
ブログ用に読みやすくしましたが、文章は変えていません。
川越さんやかよ湖さんが、UPしていたので、恥ずかしながら私も載せてみました。
ご意見お願いしま~す。
にほんブログ村
最後の数字を合わせると、カチッと手応えを感じ、重い鉄の扉がゆっくり開いた。
**
春は暖かい風と一緒に、父の訃報を運んできた。この小さなアパートで、父はたったひとりで亡くなった。
知らせを受けた私たち姉妹は、感情をどこかへ置き忘れたように事務的に葬儀や諸々の手続きを終えた。
生きていてもいなくても同じなのだ。父との思い出などかけらもない。
海外赴任が長かった父とは、幼少期から年に一、二度しか顔を合わさず、家にいても難しい顔で仕事をしている姿しか見ていない。
大人になっても何だか苦手で、結婚して家を出てからは、父がいない時を見計らって家に帰ったりしたものだ。
さらに溝を深めたのは、母が死んだ後である。
父は私たちに何の断りもなく、家を処分してしまったのだ。
ひとり暮らしに大きな家は必要ないと、全ての思い出をあっさり捨ててしまった。
私たちは憤慨し、それっきり父との一切の連絡を絶ったのである。
「何もこんな狭いアパートで死ななくてもね。そう思わない?」
葬儀のあと姉が、猫の額という表現がぴったりの小さな庭を見ながら言った。
「そうね。六畳二間に狭い台所。まあ余計な物はいらないんでしょう。そういう人よ」
整然とした和室から、憎らしいほど几帳面な暮らしぶりが伺われた。
「ねえ、ところで、お金ってどうしたと思う?」
姉が遠慮がちに切り出した。父の取引銀行には、老人がひとりで暮らすのに足りる額の金しか入っていなかった。家を売った金や、多額の貯金が他にあるだろうと、姉は言った。
小さな仏壇の横の押入に金庫を見つけた。
このアパートには立派すぎる鉄の金庫だ。
ダイヤル式の鍵を開ける四桁の数字は、文机の引出しから私が見つけた。
慎重にダイヤルを合わせ、私たちは扉を開けた。
***
「開いたわ」ふたり同時に声をあげた。中には漆の箱がひとつ、大切に仕舞われていた。
「何かしら。株券とか入っているのかな」
まるで玉手箱のような箱には、金も証券も、もちろん煙も入っていなかった。
あるのは、輪ゴムでくくられた手紙の束だった。
手紙は、いかにも子供の字で『お父さんへ』と書かれていた。
『おとうさん、らんどせるをありがとう』
『おとうさん、おもちゃをありがとう』
『お父さん、自転車をありがとう』
そして最後の封筒には、キャビネ版の写真が入っていた。笑顔の父を囲むようにたくさんの子供が写っていた。
「何よこれ。お父さんの隠し子?」
「まさか。二十人はいるわ」
「お父さんのこんな顔、見たことないわね」
その時、庭先で「すみません」と、か細い声がした。見ると、化粧っ気のない若い女が軒下から覗いていた。
「お父さん…いえ、小林さんにお線香をあげてもよろしいでしょうか」
女は、近くにある『向日葵園』という養護施設の職員だと名乗った。
「小林さんは、みんなのお父さんでした」
「父が、その施設に行っていたんですか?」
「はい。初めていらしたのは五年前です。最初は老人会の方に無理矢理連れて来られて、とても不機嫌そうでした。だけど子供たちとふれあううちにすごく優しくなられて、毎週のように来てくれるようになったんです。みんなお父さんが大好きでした。おじいちゃんと言ったら怒るので、みんなはお父さんと呼んでいたんです」
女は陽だまりのような顔で笑った。
「たくさんの寄付もいただきました。来るたびに、おもちゃや文房具を持ってきてくれました。どんな言葉でも言い尽くせないくらい、本当に、本当に感謝しています」
女は父の写真に手を合わせ、たくさんの涙を流した。姉と私が流すことのなかった、純粋できれいな涙だった。
夕暮れ、姉は崩れるように縁側に座った。
「何だか悔しいわ。お父さんの最期の扉を開けたのが、娘や孫じゃなくて他人の子なのよ」
「そうね」と私は、手紙を元に戻した。せめて棺に入れてあげたらよかったと、今さらながらに思った。
姉と並んで縁側に座った。
柔らかい風に水仙の花が揺れていた。母が好きな花と知っていたのだろうか。
「お父さんも寂しかったんじゃないかな」
父を避けていたのは私たちの方だった。扉を閉ざしていたのは、私たちの方だった。
姉と私は、肩を寄せ合って泣いた。父の訃報を聞いてから、初めて流す涙だった。
********************************
フェリシモ文学賞「ひらく」に応募して、落選だった作品です。
ブログ用に読みやすくしましたが、文章は変えていません。
川越さんやかよ湖さんが、UPしていたので、恥ずかしながら私も載せてみました。
ご意見お願いしま~す。
にほんブログ村
メアリーの失敗 [短編]
メアリーは、白いドレスばかり着ていました。
きれい好きのママが、躾のために着せたのです。
白いドレスを少しでも汚したら、ママに叱られます。
だからメアリーは、とても気をつけてドレスを汚さないように、失敗しないように暮らしたのです。
7歳ごろまでは、スープをこぼしてしまったりケチャップを付けてしまったり、失敗だらけでしたが、10歳を過ぎたころから失敗しなくなりました。
メアリーも、ママに負けないくらいのきれい好きになったのです。
汚い物には触らない、近寄らない、いつも静かに大人しく本を読んで過ごしました。
メアリーは、庭師の息子ジェイクが好きでした。
元気で明るくて、見ているだけでうっとりする素敵な男の子でした。
だけど、いっしょに遊ぶことはありません。
だってジェイクは、いつも泥だらけの靴で、服も顔も真っ黒で、いっしょにいると絶対汚れてしまうからです。
「何読んでるの?」
専用のベンチで本を読んでいたメアリーに、ジェイクが話しかけました。
「…シェークスピア…」
「へえ」とジェイクは本を取り上げて「どれどれ」とわかったふりで読みはじめました。
ジェイクの手は汚れていて、ズボンには芝が付いていました。
メアリーの本も、ジェイクの手で黒い指紋が付きました。
「その本あげる」
「え?なんで?いらないよ」
「だって、もう汚れちゃったもん」
ジェイクはとても哀しい顔で、本を足元に叩き落としました。「いらねーよ」
土埃に、メアリーは顔をそむけました。ジェイクはそれからメアリーに話しかけなくなったのです。
メアリーは15歳になりました。
折り目がきちんとついた制服を着て、毎日真っ白なブラウスで学校へ行きます。
学校へは、ピカピカの車で行きます。
運転手は、メアリーが座るシートをいつも念入りに掃除します。
糸くずひとつも見逃しません。運転手は、メアリーをとても大切に思っていました。
学校でも静かに過ごします。友達はいません。
おしゃべりしながらのランチや、芝生でのおしゃべり、なぜ自分は出来ないのか…。
メアリーは、少しずつ違和感を感じるようになっていました。
ある日、学校が終わっても、運転手が迎えに来ません。
「おかしいわ。何かあったのかしら」
メアリーが不安に思っていると、近くで事故があったようだと、通りすがりの人が言いました。
メアリーが行ってみると、カーブを曲がり損ねた車が、壁に激突していました。
「まあ、大変!」
「ああ…、お嬢さん、すみません…、風邪薬を飲んだせいで、頭がぼんやりして…」
「いいの。しゃべらないで。今、傷の手当てをするわ」
運転手の腕からは血が流れています。
メアリーは白いハンカチを取り出して、運転手に近づこうとしましたが、その時、ふと思ってしまったのです。
「ハンカチが汚れる」
そう思った途端、足が動かなくなりました。真っ白なハンカチがどす黒く汚れるところを想像してしまったのです。
1台のバイクが、メアリーの横に止まりました。
降りて来たのは、たまたま通りかかったジェイクでした。
彼は、父親の手伝いをしながら学校へ通っています。
バイクを降りたジェイクは「どけ!」とメアリーを押しのけて、運転手に駆け寄りました。
そして自分のシャツの袖を引きちぎって、運転手の腕に巻きました。
「すぐに救急車が来ますからね」と優しく言ったジェイクの笑顔は昔のままです。
メアリーは、ジェイクに押された腕をさすりました。
そこは、油のような茶色のシミになっていました。
だけど、メアリーは少しも嫌ではなかったのです。
メアリーは、運転手に駆け寄って、白いハンカチで運転手の顔を拭きました。
赤い血が、汗が、白いハンカチを汚しました。
コンクリートの白い粉が、紺のスカートにパラパラと落ち、裾にはガラスの破片や砂利が付きました。
メアリーは、それでもかまわず運転手の顔を拭きました。
「おじょうさん、大丈夫ですよ」と運転手が言っても、メアリーはやめませんでした。
救急車が来て、運転手を搬送したあと、ジェイクが振り向いて言いました。
「ひでえ顔」
メアリーは、汗と涙でぐちゃぐちゃの顔をしていました。
「送って行こうか?」とジェイクはバイクを指さしました。
バイクは古くて汚かったけど、メアリーは頷きました。
メアリーは、初めてバイクに乗りました。
汗と埃で汚れたジェイクの背中に、しっかりとしがみついて、風の街を走りました。
ママに叱られるかな…叱られてもいいわ…
久しぶりの失敗は、メアリーをなんだか楽しくさせていました。
にほんブログ村
きれい好きのママが、躾のために着せたのです。
白いドレスを少しでも汚したら、ママに叱られます。
だからメアリーは、とても気をつけてドレスを汚さないように、失敗しないように暮らしたのです。
7歳ごろまでは、スープをこぼしてしまったりケチャップを付けてしまったり、失敗だらけでしたが、10歳を過ぎたころから失敗しなくなりました。
メアリーも、ママに負けないくらいのきれい好きになったのです。
汚い物には触らない、近寄らない、いつも静かに大人しく本を読んで過ごしました。
メアリーは、庭師の息子ジェイクが好きでした。
元気で明るくて、見ているだけでうっとりする素敵な男の子でした。
だけど、いっしょに遊ぶことはありません。
だってジェイクは、いつも泥だらけの靴で、服も顔も真っ黒で、いっしょにいると絶対汚れてしまうからです。
「何読んでるの?」
専用のベンチで本を読んでいたメアリーに、ジェイクが話しかけました。
「…シェークスピア…」
「へえ」とジェイクは本を取り上げて「どれどれ」とわかったふりで読みはじめました。
ジェイクの手は汚れていて、ズボンには芝が付いていました。
メアリーの本も、ジェイクの手で黒い指紋が付きました。
「その本あげる」
「え?なんで?いらないよ」
「だって、もう汚れちゃったもん」
ジェイクはとても哀しい顔で、本を足元に叩き落としました。「いらねーよ」
土埃に、メアリーは顔をそむけました。ジェイクはそれからメアリーに話しかけなくなったのです。
メアリーは15歳になりました。
折り目がきちんとついた制服を着て、毎日真っ白なブラウスで学校へ行きます。
学校へは、ピカピカの車で行きます。
運転手は、メアリーが座るシートをいつも念入りに掃除します。
糸くずひとつも見逃しません。運転手は、メアリーをとても大切に思っていました。
学校でも静かに過ごします。友達はいません。
おしゃべりしながらのランチや、芝生でのおしゃべり、なぜ自分は出来ないのか…。
メアリーは、少しずつ違和感を感じるようになっていました。
ある日、学校が終わっても、運転手が迎えに来ません。
「おかしいわ。何かあったのかしら」
メアリーが不安に思っていると、近くで事故があったようだと、通りすがりの人が言いました。
メアリーが行ってみると、カーブを曲がり損ねた車が、壁に激突していました。
「まあ、大変!」
「ああ…、お嬢さん、すみません…、風邪薬を飲んだせいで、頭がぼんやりして…」
「いいの。しゃべらないで。今、傷の手当てをするわ」
運転手の腕からは血が流れています。
メアリーは白いハンカチを取り出して、運転手に近づこうとしましたが、その時、ふと思ってしまったのです。
「ハンカチが汚れる」
そう思った途端、足が動かなくなりました。真っ白なハンカチがどす黒く汚れるところを想像してしまったのです。
1台のバイクが、メアリーの横に止まりました。
降りて来たのは、たまたま通りかかったジェイクでした。
彼は、父親の手伝いをしながら学校へ通っています。
バイクを降りたジェイクは「どけ!」とメアリーを押しのけて、運転手に駆け寄りました。
そして自分のシャツの袖を引きちぎって、運転手の腕に巻きました。
「すぐに救急車が来ますからね」と優しく言ったジェイクの笑顔は昔のままです。
メアリーは、ジェイクに押された腕をさすりました。
そこは、油のような茶色のシミになっていました。
だけど、メアリーは少しも嫌ではなかったのです。
メアリーは、運転手に駆け寄って、白いハンカチで運転手の顔を拭きました。
赤い血が、汗が、白いハンカチを汚しました。
コンクリートの白い粉が、紺のスカートにパラパラと落ち、裾にはガラスの破片や砂利が付きました。
メアリーは、それでもかまわず運転手の顔を拭きました。
「おじょうさん、大丈夫ですよ」と運転手が言っても、メアリーはやめませんでした。
救急車が来て、運転手を搬送したあと、ジェイクが振り向いて言いました。
「ひでえ顔」
メアリーは、汗と涙でぐちゃぐちゃの顔をしていました。
「送って行こうか?」とジェイクはバイクを指さしました。
バイクは古くて汚かったけど、メアリーは頷きました。
メアリーは、初めてバイクに乗りました。
汗と埃で汚れたジェイクの背中に、しっかりとしがみついて、風の街を走りました。
ママに叱られるかな…叱られてもいいわ…
久しぶりの失敗は、メアリーをなんだか楽しくさせていました。
にほんブログ村
あの日の海 [短編]
サトウだと、すぐにわかった。
わかったけど、驚いた。
私が働くファミリーレストランに、サトウは家族とやってきた。
優しそうな奥さん、可愛い3歳くらいの女の子。
幸せそうに笑うサトウに、私は驚いた。
女の子はお子様ランチを注文し、奥さんはキノコのパスタ、サトウはカットステーキのセットを頼んだ。
サトウは私をチラリと見たが、気づかない様子でメニューを返した。
お料理を運んだ時も会計表を置いた時も、サトウは幸せそうに笑っていた。
17の夏、私はサトウを傷つけた。
傷つけたどころではない。
私はサトウを、殺そうとした。
その夏、私は死にたくて仕方がなかった。
受験を失敗して行った高校に居場所はなく、家族ともうまくいってなかった。
同じように、いつもひとりでいたサトウを、私は誘った。
「いっしょに死なない?」
誰でもよかったのだ。
ひとりで死ぬのが嫌だっただけだ。
サトウはクラスメイトからいじめを受けていたし、いつも暗い顔をしていたし、彼なら「いいよ」と言ってくれると思った。
案の定、サトウは「いいよ」と言った。
それから私たちは、死ぬ方法を考えた。
恋人同士のように毎日電話をして、「薬はどうだ」とか、「飛び降りはやめようね」とか、そんな話をした。
結局、海を選んだ。
夜の海に、ふたりで入った。
サトウは、ざぶざぶと迷うことなく進んで行った。
夜の海は真っ暗で、沖に行くほど波が高くなり、私は急に怖くなった。
顔に海水がかかった時、目が覚めたように叫んだ。
「サトウ、やめよう!やっぱやめよう!!」
サトウは、振り向きもせずに進んで行った。
「サトウ!戻って!」
力のかぎり呼んだが、サトウは戻らなかった。
私は浜へ引き返し、助けを求めた。
結局サトウは、釣り船に助けられて一命を取り止めた。
その後、自殺を持ちかけたのはサトウで、私は被害者みたいな話になった。
私は否定をしなかった。サトウを悪者にして逃げた。
サトウはその後学校をやめて、それっきり会うことはなかった。
卑劣でずるいと自分を責めながら、私は普通に生きてきた。
だから幸せそうなサトウを見て、ホッとしたような、裏切られたような不思議な気がした。
サトウは帰るとき、奥さんに車のキーを渡して私の方へ戻ってきた。
「シノハラさん…だよね」
サトウは、気づいていた。それはそうだ。忘れるわけがない。
サトウの笑顔が消えて、罵る言葉を私は待った。
だけど、サトウは優しく言った。
「よかった。シノハラさんが生きてて」
「え?」
「それだけ伝えたかったんだ。僕はあの時死ななくてホントによかったと思ってる。君もそうだといいなと思ってたんだ」
サトウが一瞬泣きそうな顔をしたから、胸が痛んだ。
「あいかわらず、バカみたいにお人よしなのね」
声がうわずった。
「うん。妻にもよく言われる」
サトウの笑顔は、私を救った。
私の心は、ずっと暗い海を漂っていた。後悔と懺悔の中でサトウの後姿に叫んでいた。
やっと前に進める。
「サトウも、生きててよかった」
私は心から、そう思えた。
にほんブログ村
わかったけど、驚いた。
私が働くファミリーレストランに、サトウは家族とやってきた。
優しそうな奥さん、可愛い3歳くらいの女の子。
幸せそうに笑うサトウに、私は驚いた。
女の子はお子様ランチを注文し、奥さんはキノコのパスタ、サトウはカットステーキのセットを頼んだ。
サトウは私をチラリと見たが、気づかない様子でメニューを返した。
お料理を運んだ時も会計表を置いた時も、サトウは幸せそうに笑っていた。
17の夏、私はサトウを傷つけた。
傷つけたどころではない。
私はサトウを、殺そうとした。
その夏、私は死にたくて仕方がなかった。
受験を失敗して行った高校に居場所はなく、家族ともうまくいってなかった。
同じように、いつもひとりでいたサトウを、私は誘った。
「いっしょに死なない?」
誰でもよかったのだ。
ひとりで死ぬのが嫌だっただけだ。
サトウはクラスメイトからいじめを受けていたし、いつも暗い顔をしていたし、彼なら「いいよ」と言ってくれると思った。
案の定、サトウは「いいよ」と言った。
それから私たちは、死ぬ方法を考えた。
恋人同士のように毎日電話をして、「薬はどうだ」とか、「飛び降りはやめようね」とか、そんな話をした。
結局、海を選んだ。
夜の海に、ふたりで入った。
サトウは、ざぶざぶと迷うことなく進んで行った。
夜の海は真っ暗で、沖に行くほど波が高くなり、私は急に怖くなった。
顔に海水がかかった時、目が覚めたように叫んだ。
「サトウ、やめよう!やっぱやめよう!!」
サトウは、振り向きもせずに進んで行った。
「サトウ!戻って!」
力のかぎり呼んだが、サトウは戻らなかった。
私は浜へ引き返し、助けを求めた。
結局サトウは、釣り船に助けられて一命を取り止めた。
その後、自殺を持ちかけたのはサトウで、私は被害者みたいな話になった。
私は否定をしなかった。サトウを悪者にして逃げた。
サトウはその後学校をやめて、それっきり会うことはなかった。
卑劣でずるいと自分を責めながら、私は普通に生きてきた。
だから幸せそうなサトウを見て、ホッとしたような、裏切られたような不思議な気がした。
サトウは帰るとき、奥さんに車のキーを渡して私の方へ戻ってきた。
「シノハラさん…だよね」
サトウは、気づいていた。それはそうだ。忘れるわけがない。
サトウの笑顔が消えて、罵る言葉を私は待った。
だけど、サトウは優しく言った。
「よかった。シノハラさんが生きてて」
「え?」
「それだけ伝えたかったんだ。僕はあの時死ななくてホントによかったと思ってる。君もそうだといいなと思ってたんだ」
サトウが一瞬泣きそうな顔をしたから、胸が痛んだ。
「あいかわらず、バカみたいにお人よしなのね」
声がうわずった。
「うん。妻にもよく言われる」
サトウの笑顔は、私を救った。
私の心は、ずっと暗い海を漂っていた。後悔と懺悔の中でサトウの後姿に叫んでいた。
やっと前に進める。
「サトウも、生きててよかった」
私は心から、そう思えた。
にほんブログ村
僕の妹 [短編]
自分で言うのもなんだが、僕は売れっ子小説家だ。
新刊を出せば話題になり、そこそこ売れる。
僕はこの夏、自伝的小説を書いた。
出だしはこうだ。
『僕には夏子という妹がいた。ふわふわの茶色の髪と柔らかい頬を持った天使のような夏子が妹だったのは、わずか3か月間だった』
僕が10歳の時、父が再婚して新しい家族が出来た。
優しくてきれいな母親と5歳のかわいい妹だ。
妹は母親のスカートをぎゅっとつかんで、恥ずかしそうに微笑んだ。
まるで天使だと思った。
新しい母が作る料理はどれも美味しく、妹は無条件で可愛かった。
だけど、そんな幸せな僕の家族は、たった3か月で消えてしまった。
両親が交通事故で亡くなってしまったのだ。
そのとき、僕と妹は家で留守番をしていた。
後で聞いた話だが、母の中には新しい命が宿っていた。
両親は、ふたりで病院へ行く途中で事故に遭ったのだ。
僕は父の叔母夫婦に引き取られ、妹は母方の祖父母に引き取られた。
それっきり、妹には会っていない。
小説は、大人になった妹との再会を想像する馬鹿な男の話だ。
時にはコミカルな、時にはシリアスな、時にはエロティックな妹が登場する。
小説は、ベストセラーになった。そして映画化の話まで舞い込んだ。
そのころから、僕の前に何人もの夏子が現われた。
「おにいちゃん」と僕を呼び、「5歳の時に別れた夏子です」と女たちは言った。
もちろん誰も本物の妹などではなかった。
「似たような境遇の人がいるものですね」
僕が言うと、編集者は笑った。
「先生は人がいいな。あの女たちはみんな女優の卵ですよ。映画化の話を聞いて近づいてきたのでしょう。あわよくば夏子役を射止めようとでもしているのでしょう」
「そうなのか?」
「そうですよ。本を読んで、先生のイメージの夏子を演じに来たんですよ」
なんだそうか。だけど「夏子」を名乗るのは、妹ではありえない。なぜなら妹の名前は本の中では「夏子」だが、実際は「奈津」なのだ。
「小平奈津」が妹の名前だ。もっとも小平の姓だったのは、たった3か月だったけど。
その後の姓など、知る由もない。
編集者との打ち合わせを終えて帰ると、マンションの前に女がいた。
「お兄ちゃん」と女は言った。
「5歳の時に別れた奈津です」と女は言った。
「奈津?」
「そう。奈津。本では夏子になっていたけど、あれは私のことでしょう?」
女は、ふわふわの茶色い髪に、柔らかい白い頬を持っていた。だけど…。
「妹の本名をよく調べたね。だけど君は奈津じゃない」
「疑り深いのね。じゃあ昔の話をするわ。お兄ちゃん、よく本を読んでくれたわね。泣いた赤鬼や笠地蔵。日本の昔話が多かったわね」
確かにそうだ。僕は妹にいつも本を読んでいた。女の子が喜ぶような本は家になくて、日本の昔話ばかりを読んでいた。
「これでわかったでしょう。お兄ちゃん。私は正真正銘の奈津よ。先生の小説がずっと好きだったの。今回の小説で、先生がお兄ちゃんだと知って、飛び上がる思いだったわ」
女は確かに天使のような笑顔をしている。
この子が奈津だったらどんなにいいだろう…と心のどこかで思ったほど、彼女の笑顔は素敵だった。
「だけど君は奈津じゃないよ」
「どうして?お兄ちゃんは成長した奈津を知らないでしょう。なぜ違うとわかるのよ」
「だって、奈津は目が見えないんだ」
女は黙ってしまった。
そう…。奈津は生まれつき目が見えない。だから僕は、いつも大きな声で本を読んであげた。
小説には書かなかった真実だった。
「まさかそんな…。そんなふうに見えなかったわ」
「君はいったい誰だ?」
女は、幼いころ僕の家の近所に住んでいたことを告白した。
自分と同じ5歳の妹に、いつも大きな声で本を読むお兄ちゃんが羨ましかったと告げた。
「ごめんなさい。だけど、あなたの小説が大好きなのは本当よ」
女はそう言って帰っていった。
奈津が僕の小説を読むことはないだろう。
奈津が映画を見ることはないだろう。
奈津に逢える日は、きっと来ないのだろう。
にほんブログ村
新刊を出せば話題になり、そこそこ売れる。
僕はこの夏、自伝的小説を書いた。
出だしはこうだ。
『僕には夏子という妹がいた。ふわふわの茶色の髪と柔らかい頬を持った天使のような夏子が妹だったのは、わずか3か月間だった』
僕が10歳の時、父が再婚して新しい家族が出来た。
優しくてきれいな母親と5歳のかわいい妹だ。
妹は母親のスカートをぎゅっとつかんで、恥ずかしそうに微笑んだ。
まるで天使だと思った。
新しい母が作る料理はどれも美味しく、妹は無条件で可愛かった。
だけど、そんな幸せな僕の家族は、たった3か月で消えてしまった。
両親が交通事故で亡くなってしまったのだ。
そのとき、僕と妹は家で留守番をしていた。
後で聞いた話だが、母の中には新しい命が宿っていた。
両親は、ふたりで病院へ行く途中で事故に遭ったのだ。
僕は父の叔母夫婦に引き取られ、妹は母方の祖父母に引き取られた。
それっきり、妹には会っていない。
小説は、大人になった妹との再会を想像する馬鹿な男の話だ。
時にはコミカルな、時にはシリアスな、時にはエロティックな妹が登場する。
小説は、ベストセラーになった。そして映画化の話まで舞い込んだ。
そのころから、僕の前に何人もの夏子が現われた。
「おにいちゃん」と僕を呼び、「5歳の時に別れた夏子です」と女たちは言った。
もちろん誰も本物の妹などではなかった。
「似たような境遇の人がいるものですね」
僕が言うと、編集者は笑った。
「先生は人がいいな。あの女たちはみんな女優の卵ですよ。映画化の話を聞いて近づいてきたのでしょう。あわよくば夏子役を射止めようとでもしているのでしょう」
「そうなのか?」
「そうですよ。本を読んで、先生のイメージの夏子を演じに来たんですよ」
なんだそうか。だけど「夏子」を名乗るのは、妹ではありえない。なぜなら妹の名前は本の中では「夏子」だが、実際は「奈津」なのだ。
「小平奈津」が妹の名前だ。もっとも小平の姓だったのは、たった3か月だったけど。
その後の姓など、知る由もない。
編集者との打ち合わせを終えて帰ると、マンションの前に女がいた。
「お兄ちゃん」と女は言った。
「5歳の時に別れた奈津です」と女は言った。
「奈津?」
「そう。奈津。本では夏子になっていたけど、あれは私のことでしょう?」
女は、ふわふわの茶色い髪に、柔らかい白い頬を持っていた。だけど…。
「妹の本名をよく調べたね。だけど君は奈津じゃない」
「疑り深いのね。じゃあ昔の話をするわ。お兄ちゃん、よく本を読んでくれたわね。泣いた赤鬼や笠地蔵。日本の昔話が多かったわね」
確かにそうだ。僕は妹にいつも本を読んでいた。女の子が喜ぶような本は家になくて、日本の昔話ばかりを読んでいた。
「これでわかったでしょう。お兄ちゃん。私は正真正銘の奈津よ。先生の小説がずっと好きだったの。今回の小説で、先生がお兄ちゃんだと知って、飛び上がる思いだったわ」
女は確かに天使のような笑顔をしている。
この子が奈津だったらどんなにいいだろう…と心のどこかで思ったほど、彼女の笑顔は素敵だった。
「だけど君は奈津じゃないよ」
「どうして?お兄ちゃんは成長した奈津を知らないでしょう。なぜ違うとわかるのよ」
「だって、奈津は目が見えないんだ」
女は黙ってしまった。
そう…。奈津は生まれつき目が見えない。だから僕は、いつも大きな声で本を読んであげた。
小説には書かなかった真実だった。
「まさかそんな…。そんなふうに見えなかったわ」
「君はいったい誰だ?」
女は、幼いころ僕の家の近所に住んでいたことを告白した。
自分と同じ5歳の妹に、いつも大きな声で本を読むお兄ちゃんが羨ましかったと告げた。
「ごめんなさい。だけど、あなたの小説が大好きなのは本当よ」
女はそう言って帰っていった。
奈津が僕の小説を読むことはないだろう。
奈津が映画を見ることはないだろう。
奈津に逢える日は、きっと来ないのだろう。
にほんブログ村
晴れた日、犬を飼う [短編]
金木犀が穏やかに香る、晴れた午後だった。
妻が突然思いついたように言った。
「犬を買いに行きましょう」
「犬?」
「そう、犬。こんな晴れた日は、犬を買うのにぴったりよ」
私は、なぜ妻がそんなことを言い出したのか考えた。なぜなら、妻は犬が苦手なのだ。
理由はひとつしか思いつかない。
ひとり娘のアキが、結婚して家を出たからだ。
アキは、親の反対を押し切って15歳年上のバツイチ男と結婚した。
妻が敷いたレールを思い切り外れて、家出のような形で出て行った。
妻はそれが許せない。
アキがずっと飼いたがっていた犬を、アキのいない家で飼う。
ちょっとした当てつけだ。ささやかな復讐だ。
だけどそれで妻の気が晴れるなら、私は喜んで犬を買おう。
アキの結婚に対して私は、中立の立場にいる。
なぜならアキの結婚相手は私の会社の部下だからだ。つまりふたりを引き合わせたのは私だ。だから妻は時として私にもつらく当たる。
「犬を飼ったら楽しそうだな」
「あら、今の暮らしがそんなにつまらないの?」
…こんなふうに、嫌味を言ったりするのだ。
ペットショップには、子犬たちがじゃれあいながら可愛さをアピールしていた。
チワワ、トイプードル、コーギー、ミチチュアダックスフンド…
「可愛いわね。大きい犬は怖いけど、小さい犬なら大丈夫だわ」
私たちはじっくり吟味して、3匹の犬をケージから出してもらった。
「まあ、どの子も可愛いわ。とても決められない。ねえ、どうする?」
妻は代わる代わる犬の背中を撫でながら、困ったような顔をした。
「それなら、名前を呼んで反応した犬にしたらどうかな?」
「名前?名前なんてまだ決めていないわ」
「僕は決めているよ」
そう言って私は、犬に向かって名前を呼んだ。
「アキ」
妻は一瞬顔を曇らせ、「アキ?」と怒ったような声を出した。
「なんでアキなのよ」
「いや…。今日が秋晴れだからさ。深い意味なんかないよ」
私はもう一度「アキ!」と呼んだ。
その声に反応したのか、1匹の柴犬がシッポを振ってこちらに来た。
「アキ」と私がもう一度呼ぶと、柴犬は嬉しそうに私の指をなめた。
柴犬は、不機嫌そうだった妻の足もとにじゃれついた。
「あらいやだ。うちのアキよりよっぽど可愛いわね」
妻はそう言って苦笑いをした。
柴犬は、その日からうちの家族になった。
「アキ、今忙しいのよ。あとで遊んであげるわ」
「アキったら、いい加減にしてちょうだい。この毛布はかじっちゃだめよ」
「よしよし。アキはおりこうさんね」
妻が、毎日楽しそうだ。ふさぎ込むこともなくなった。
私は、頃合いを見て切り出した。
「アキがその姿を見たら驚くだろうな。ああ、人間のアキの方だが」
「そりゃそうよ。まさか私が犬を飼うなんて夢にも思ってないでしょう」
「どうだろう。アキとアキを対面させてみたら?」
妻は私の提案に、意外にもあっさり「そうね」と言った。
「いいのか?」
「いいも何も、どうせこそこそ連絡取り合ってるんでしょう」
妻の嫌味が、いくぶん柔らかくなった気がした。
そして娘のアキが半年ぶりに帰ってきたのは、秋桜がかすかに揺れる小春日和の午後だった。
「ねえあなた。さっきね、アキって呼んだら、ふたり同時に振り向くのよ。その顔がそっくりなの。目がまんまるでね」
妻は楽しそうに笑って、娘の好きな栗ご飯を作り始めた。
晴れた日、私たちは犬を飼った。
それは、娘の代りなどではない。大切な家族になった。
にほんブログ村
妻が突然思いついたように言った。
「犬を買いに行きましょう」
「犬?」
「そう、犬。こんな晴れた日は、犬を買うのにぴったりよ」
私は、なぜ妻がそんなことを言い出したのか考えた。なぜなら、妻は犬が苦手なのだ。
理由はひとつしか思いつかない。
ひとり娘のアキが、結婚して家を出たからだ。
アキは、親の反対を押し切って15歳年上のバツイチ男と結婚した。
妻が敷いたレールを思い切り外れて、家出のような形で出て行った。
妻はそれが許せない。
アキがずっと飼いたがっていた犬を、アキのいない家で飼う。
ちょっとした当てつけだ。ささやかな復讐だ。
だけどそれで妻の気が晴れるなら、私は喜んで犬を買おう。
アキの結婚に対して私は、中立の立場にいる。
なぜならアキの結婚相手は私の会社の部下だからだ。つまりふたりを引き合わせたのは私だ。だから妻は時として私にもつらく当たる。
「犬を飼ったら楽しそうだな」
「あら、今の暮らしがそんなにつまらないの?」
…こんなふうに、嫌味を言ったりするのだ。
ペットショップには、子犬たちがじゃれあいながら可愛さをアピールしていた。
チワワ、トイプードル、コーギー、ミチチュアダックスフンド…
「可愛いわね。大きい犬は怖いけど、小さい犬なら大丈夫だわ」
私たちはじっくり吟味して、3匹の犬をケージから出してもらった。
「まあ、どの子も可愛いわ。とても決められない。ねえ、どうする?」
妻は代わる代わる犬の背中を撫でながら、困ったような顔をした。
「それなら、名前を呼んで反応した犬にしたらどうかな?」
「名前?名前なんてまだ決めていないわ」
「僕は決めているよ」
そう言って私は、犬に向かって名前を呼んだ。
「アキ」
妻は一瞬顔を曇らせ、「アキ?」と怒ったような声を出した。
「なんでアキなのよ」
「いや…。今日が秋晴れだからさ。深い意味なんかないよ」
私はもう一度「アキ!」と呼んだ。
その声に反応したのか、1匹の柴犬がシッポを振ってこちらに来た。
「アキ」と私がもう一度呼ぶと、柴犬は嬉しそうに私の指をなめた。
柴犬は、不機嫌そうだった妻の足もとにじゃれついた。
「あらいやだ。うちのアキよりよっぽど可愛いわね」
妻はそう言って苦笑いをした。
柴犬は、その日からうちの家族になった。
「アキ、今忙しいのよ。あとで遊んであげるわ」
「アキったら、いい加減にしてちょうだい。この毛布はかじっちゃだめよ」
「よしよし。アキはおりこうさんね」
妻が、毎日楽しそうだ。ふさぎ込むこともなくなった。
私は、頃合いを見て切り出した。
「アキがその姿を見たら驚くだろうな。ああ、人間のアキの方だが」
「そりゃそうよ。まさか私が犬を飼うなんて夢にも思ってないでしょう」
「どうだろう。アキとアキを対面させてみたら?」
妻は私の提案に、意外にもあっさり「そうね」と言った。
「いいのか?」
「いいも何も、どうせこそこそ連絡取り合ってるんでしょう」
妻の嫌味が、いくぶん柔らかくなった気がした。
そして娘のアキが半年ぶりに帰ってきたのは、秋桜がかすかに揺れる小春日和の午後だった。
「ねえあなた。さっきね、アキって呼んだら、ふたり同時に振り向くのよ。その顔がそっくりなの。目がまんまるでね」
妻は楽しそうに笑って、娘の好きな栗ご飯を作り始めた。
晴れた日、私たちは犬を飼った。
それは、娘の代りなどではない。大切な家族になった。
にほんブログ村
下を向いて歩こう [短編]
上を向いて歩こう…とみんなが言う中、僕は母に「下を向いて歩け」と教わった。
「下を向いて歩きなよ。ほら、よーく見なさい」
それは、盛大に花見が行われた翌日の早朝だった。
母と僕は、ゴミ拾いに参加しながら、落ちているお金を拾っていた。
「露天商が店を出していた辺りをよくごらん。たくさん落ちているからね。草の間もよく見るんだよ」
言われた通り、下を向いて歩くと、草むらに光るコインを見つけた。
「母さん、500円だよ」
「ほう、おまえはたいした子供だね。素質があるよ」
母に褒められると、僕も嬉しかった。
母は、千円札を2枚拾った。10円などの小銭を合わせると、収穫は3千円を超えた。
僕たちはいつもより豪華な夕食を食べた。
うちには父はいない。去年出稼ぎに行ったきり帰ってこないのだ。
スーパーで働く母の収入で、僕たちは暮らしていた。
「ねえ母さん、うちが貧乏だからお金を拾うの?」
「ちがうよ、バカだね。どんな金持ちだって、金が落ちてたら拾うさ」
「そうなの?」
「そうだよ」
僕はそれを聞いて安心した。それからも、僕は下を向いて歩いた。
そしてお金が落ちていたら拾った。それは、当たり前のことなんだ。
僕は一生懸命勉強をして、奨学金で大学に行った。
一流企業に就職し、真面目な仕事ぶりを評価され、社長の娘と結婚した。
やっといい暮らしが出来るのに、母は苦労が祟って病気になり、亡くなってしまった。
母は死ぬ直前まで、花見のゴミ拾い(金拾い)を続けた。
僕は、相変わらず下を向いて歩いた。そしてお金が落ちていたら拾った。
「あなた、次期社長なんだから、そんなみっともないことはやめて」
妻に言われた。
「みっともない?君はお金が落ちていても拾わないのか?」
「子供のころは拾ったわよ」
「ほら、拾うじゃないか」
「だけど私は交番に届けたわ」
「交番に届けた?なぜ?」
「だって、自分のお金じゃないでしょう。それは落とした誰かのお金よ。自分の物にしたら、それは泥棒よ。私はそう教わったわ」
泥棒だって?僕はいままで泥棒をしていたのか?
愕然とした。
僕は翌日交番へ行った。
「僕は拾った金を自分の物にしていました。僕は泥棒です」
お巡りさんは困った顔をして、「いくら拾ったんですか?」と聞いた。
「20年間で、5000円、いや、それ以上かも」
お巡りさんは笑いながら、
「もう時効ですよ」と優しく言った。
「しかし、それでは気が済まない」
「それでしたら、義援金として寄付したらいかがですか?地震で困っている方がたくさんいますよ」
「そうか。寄付か。思いつかなかった」
お巡りさんに言われて、僕は貯金の中から出来る限りの寄付をした。
それだけでは足りず、被災地に行ってボランティアをした。
「そこまでしなくても」と妻は呆れたけれど、従業員は僕の行動を高く評価した。
あの人が社長になるなら我が社も安泰だ…と。
被災地で食事を配っていた時だった。
「ありがとう」と礼を言って、汁物をもらった初老の男をみて、僕は驚いた。
それは、20年前に僕らを捨てた父親だった。
「父さん?」と言うと、父はひどく狼狽した。
僕たちは少し離れたところで話をした。
母が死んだことを告げると、父は汁物を持ったまま泣き崩れた。すまない、すまない、と何度も謝った。
その姿が何だか滑稽に見えて、僕は「もう時効だよ」と、あのお巡りさんの言葉をまねた。
父は深く頭を下げた。そして草むらに何かを見つけて拾った。
父は、にかっと笑うと僕の手に拾った物を握らせた。
「父親らしいことは何もできなかったから、小遣いだ」
それは、土で汚れた百円玉だった。
僕はこの百円を、交番には届けない。
この百円が、僕と父と、そして母とを繋ぐ宝物のように見えたからだ。
僕はそれをぎゅっと握った。
それから僕は、下を向いて歩くのをやめた。
にほんブログ村
「下を向いて歩きなよ。ほら、よーく見なさい」
それは、盛大に花見が行われた翌日の早朝だった。
母と僕は、ゴミ拾いに参加しながら、落ちているお金を拾っていた。
「露天商が店を出していた辺りをよくごらん。たくさん落ちているからね。草の間もよく見るんだよ」
言われた通り、下を向いて歩くと、草むらに光るコインを見つけた。
「母さん、500円だよ」
「ほう、おまえはたいした子供だね。素質があるよ」
母に褒められると、僕も嬉しかった。
母は、千円札を2枚拾った。10円などの小銭を合わせると、収穫は3千円を超えた。
僕たちはいつもより豪華な夕食を食べた。
うちには父はいない。去年出稼ぎに行ったきり帰ってこないのだ。
スーパーで働く母の収入で、僕たちは暮らしていた。
「ねえ母さん、うちが貧乏だからお金を拾うの?」
「ちがうよ、バカだね。どんな金持ちだって、金が落ちてたら拾うさ」
「そうなの?」
「そうだよ」
僕はそれを聞いて安心した。それからも、僕は下を向いて歩いた。
そしてお金が落ちていたら拾った。それは、当たり前のことなんだ。
僕は一生懸命勉強をして、奨学金で大学に行った。
一流企業に就職し、真面目な仕事ぶりを評価され、社長の娘と結婚した。
やっといい暮らしが出来るのに、母は苦労が祟って病気になり、亡くなってしまった。
母は死ぬ直前まで、花見のゴミ拾い(金拾い)を続けた。
僕は、相変わらず下を向いて歩いた。そしてお金が落ちていたら拾った。
「あなた、次期社長なんだから、そんなみっともないことはやめて」
妻に言われた。
「みっともない?君はお金が落ちていても拾わないのか?」
「子供のころは拾ったわよ」
「ほら、拾うじゃないか」
「だけど私は交番に届けたわ」
「交番に届けた?なぜ?」
「だって、自分のお金じゃないでしょう。それは落とした誰かのお金よ。自分の物にしたら、それは泥棒よ。私はそう教わったわ」
泥棒だって?僕はいままで泥棒をしていたのか?
愕然とした。
僕は翌日交番へ行った。
「僕は拾った金を自分の物にしていました。僕は泥棒です」
お巡りさんは困った顔をして、「いくら拾ったんですか?」と聞いた。
「20年間で、5000円、いや、それ以上かも」
お巡りさんは笑いながら、
「もう時効ですよ」と優しく言った。
「しかし、それでは気が済まない」
「それでしたら、義援金として寄付したらいかがですか?地震で困っている方がたくさんいますよ」
「そうか。寄付か。思いつかなかった」
お巡りさんに言われて、僕は貯金の中から出来る限りの寄付をした。
それだけでは足りず、被災地に行ってボランティアをした。
「そこまでしなくても」と妻は呆れたけれど、従業員は僕の行動を高く評価した。
あの人が社長になるなら我が社も安泰だ…と。
被災地で食事を配っていた時だった。
「ありがとう」と礼を言って、汁物をもらった初老の男をみて、僕は驚いた。
それは、20年前に僕らを捨てた父親だった。
「父さん?」と言うと、父はひどく狼狽した。
僕たちは少し離れたところで話をした。
母が死んだことを告げると、父は汁物を持ったまま泣き崩れた。すまない、すまない、と何度も謝った。
その姿が何だか滑稽に見えて、僕は「もう時効だよ」と、あのお巡りさんの言葉をまねた。
父は深く頭を下げた。そして草むらに何かを見つけて拾った。
父は、にかっと笑うと僕の手に拾った物を握らせた。
「父親らしいことは何もできなかったから、小遣いだ」
それは、土で汚れた百円玉だった。
僕はこの百円を、交番には届けない。
この百円が、僕と父と、そして母とを繋ぐ宝物のように見えたからだ。
僕はそれをぎゅっと握った。
それから僕は、下を向いて歩くのをやめた。
にほんブログ村