非常階段 [公募]
ホテルのエレベーターが突然止まった。乗客は一組のカップルだけだ。
上質なスーツを着た30代の男と、同じく30代と思われる黒いドレスの女。
小さく悲鳴をあげてよろけた女を、男が抱きとめた。
ふたりは、最上階のレストランに向かっていた。
「まだ25階じゃないの。一体どうしたの?」
「何かあったのかな」
そのとき扉が開き、緊迫した様子の警備員が、すぐにエレベーターを降りるように告げた。
「上の階で爆発がありました。危険なのでエレベーターは使えません。あちらの非常階段で降りてください」
「爆発だって? 誰も騒いでないじゃないか」
「この階には他のお客様はいません。さあ、急いでください」
男は少し不審に思ったが、騒ぎに巻き込まれるのはまずい。
男には妻がいて、女には夫がいる。お互いに人目を忍ぶ関係である。
警備員に誘導された非常階段は、恐ろしく急だった。
風が下から吹き上げてきて、女はドレスの裾を押えた。
下を見ると目眩がしそうだ。しかし止まっているわけにもいかない。
男は手すりに掴まり、階段を下り始めた。
「ちょっと待ってよ。早いわよ」
「そんなハイヒールを履いてるからだ。脱げ」
「いやよ。足が冷たいじゃないの」
5階ほど下りたところで男は首を傾げた。
「なあ、爆発が起きたのに、避難してるのが俺たちだけって、おかしくないか?」
「そうね。大した爆発じゃなかったのかも。あの警備員が大げさだったのかしら」
フロアに戻ろうとドアノブに手をかけたが鍵がかかっている。その下の階も同じだ。
「階段を下りるしかなさそうね」
女が息を切らしている。
「運動不足じゃないのか?」
「お互い様よ。あなただって最近お腹が出てきたわよ」
「女房みたいなこと言うなよ」
「あっ、そのセリフ、タブーよ」
半分くらい下りただろうか。
ふたりの口数は徐々に減り、互いを気遣う余裕さえ失くしていった。
階段は、上るより下りる方がはるかに神経を使う。足がガクガクする。
薄暗い夕闇がせまる中、まるで終わりのない不思議絵の階段のように思えて気が滅入る。
「もういや。足が痛いわ」
「だから、靴を脱げと言っただろう」
苛立って投げた言葉を返すように、女がハイヒールを投げつけ、男の後頭部を直撃した。
「イテッ、何するんだよ。危ねーな」
「脱げって言ったから脱いだのよ」
ハイヒールは、羨ましいほどの勢いで、階段を転げ落ちて行った。
「下に降りたら新しいのを買ってよね」
「はあ? 自分で買えよ。ダンナのカード使いまくってるくせに」
「家族の話題はタブーでしょ。イエローカード二枚で退場よ」
「ああ、今すぐこの場からもお前からも退場したいよ」
ふたりは険悪な空気の中、ただ下に降りることだけを考えて足を動かした。
感覚が麻痺してくる。
なぜここにいて、なぜこれほどに辛い思いをしているのか、考えることも億劫になっていた。
へとへとになりながら、ようやくビルの裏手にたどり着いた。
何もなかったように静まり返っている。
表にまわると、いつもと同じ煌びやかなイルミネーションと、笑顔で賑わう多くの人々。
爆弾騒ぎなど、本当にあったのか。
そんなことはどうでもいい。ふたりは疲れ切っていた。
男は、裸足の女をタクシーに乗せ、投げるように札を渡した。
この女とは、これっきりだ。もちろん女もまた、同じことを思った。
ネクタイを緩め、汗をぬぐった。早く帰りたい。
12月の夜の街、男は無性に妻の手料理が恋しかった。
その頃、男の妻はホテル最上階のレストランにいた。
オペラグラスで疲れ切った男と女を楽しそうに眺めた後、連れの男とシャンパングラスを合わせた。
「いい気味ね」
「無様だな」
「ところであなた、あの警備員にいくら握らせたの?」
「浮気女を懲らしめるためなら安いもんさ」
連れの男は、女の夫である。
「それで、この後どうする?」
「そうね。どうしようかしら」
ふたりは二杯目のシャンパングラスを軽く合わせて見つめ合った。
******
公募ガイドTO-BE小説工房でボツだった作品です。
テーマは「階段」。
もうすっかり自信を無くしてしまいました。
どうすりゃいいのさ。
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上質なスーツを着た30代の男と、同じく30代と思われる黒いドレスの女。
小さく悲鳴をあげてよろけた女を、男が抱きとめた。
ふたりは、最上階のレストランに向かっていた。
「まだ25階じゃないの。一体どうしたの?」
「何かあったのかな」
そのとき扉が開き、緊迫した様子の警備員が、すぐにエレベーターを降りるように告げた。
「上の階で爆発がありました。危険なのでエレベーターは使えません。あちらの非常階段で降りてください」
「爆発だって? 誰も騒いでないじゃないか」
「この階には他のお客様はいません。さあ、急いでください」
男は少し不審に思ったが、騒ぎに巻き込まれるのはまずい。
男には妻がいて、女には夫がいる。お互いに人目を忍ぶ関係である。
警備員に誘導された非常階段は、恐ろしく急だった。
風が下から吹き上げてきて、女はドレスの裾を押えた。
下を見ると目眩がしそうだ。しかし止まっているわけにもいかない。
男は手すりに掴まり、階段を下り始めた。
「ちょっと待ってよ。早いわよ」
「そんなハイヒールを履いてるからだ。脱げ」
「いやよ。足が冷たいじゃないの」
5階ほど下りたところで男は首を傾げた。
「なあ、爆発が起きたのに、避難してるのが俺たちだけって、おかしくないか?」
「そうね。大した爆発じゃなかったのかも。あの警備員が大げさだったのかしら」
フロアに戻ろうとドアノブに手をかけたが鍵がかかっている。その下の階も同じだ。
「階段を下りるしかなさそうね」
女が息を切らしている。
「運動不足じゃないのか?」
「お互い様よ。あなただって最近お腹が出てきたわよ」
「女房みたいなこと言うなよ」
「あっ、そのセリフ、タブーよ」
半分くらい下りただろうか。
ふたりの口数は徐々に減り、互いを気遣う余裕さえ失くしていった。
階段は、上るより下りる方がはるかに神経を使う。足がガクガクする。
薄暗い夕闇がせまる中、まるで終わりのない不思議絵の階段のように思えて気が滅入る。
「もういや。足が痛いわ」
「だから、靴を脱げと言っただろう」
苛立って投げた言葉を返すように、女がハイヒールを投げつけ、男の後頭部を直撃した。
「イテッ、何するんだよ。危ねーな」
「脱げって言ったから脱いだのよ」
ハイヒールは、羨ましいほどの勢いで、階段を転げ落ちて行った。
「下に降りたら新しいのを買ってよね」
「はあ? 自分で買えよ。ダンナのカード使いまくってるくせに」
「家族の話題はタブーでしょ。イエローカード二枚で退場よ」
「ああ、今すぐこの場からもお前からも退場したいよ」
ふたりは険悪な空気の中、ただ下に降りることだけを考えて足を動かした。
感覚が麻痺してくる。
なぜここにいて、なぜこれほどに辛い思いをしているのか、考えることも億劫になっていた。
へとへとになりながら、ようやくビルの裏手にたどり着いた。
何もなかったように静まり返っている。
表にまわると、いつもと同じ煌びやかなイルミネーションと、笑顔で賑わう多くの人々。
爆弾騒ぎなど、本当にあったのか。
そんなことはどうでもいい。ふたりは疲れ切っていた。
男は、裸足の女をタクシーに乗せ、投げるように札を渡した。
この女とは、これっきりだ。もちろん女もまた、同じことを思った。
ネクタイを緩め、汗をぬぐった。早く帰りたい。
12月の夜の街、男は無性に妻の手料理が恋しかった。
その頃、男の妻はホテル最上階のレストランにいた。
オペラグラスで疲れ切った男と女を楽しそうに眺めた後、連れの男とシャンパングラスを合わせた。
「いい気味ね」
「無様だな」
「ところであなた、あの警備員にいくら握らせたの?」
「浮気女を懲らしめるためなら安いもんさ」
連れの男は、女の夫である。
「それで、この後どうする?」
「そうね。どうしようかしら」
ふたりは二杯目のシャンパングラスを軽く合わせて見つめ合った。
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公募ガイドTO-BE小説工房でボツだった作品です。
テーマは「階段」。
もうすっかり自信を無くしてしまいました。
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2016-02-12 19:20
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コメント(13)
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リンさんさん おはようございます。
すごい作戦ですね。気になるのが最上階の二人の関係です。まさか浮気はしていないでしょうね。やっは!
by SORI (2016-02-13 06:50)
拝読いたしました。
これでボツとは、TO-BE小説工房もハードルが高いですね。
私の作品が箸にも棒にもかからない訳がよく分かります。
ちょっと違和感を感じたのが、
男女ふたりが避難する場面で、
ふたりとも疑問を持たずに25階から1階まで降りていく所かな。
緊急警報機も鳴っていないし、他の客にも出会わない。
フロアへのドアを開けようとしてもロックされている。
そんなときは、携帯電話で外部に連絡するんじゃないか……。
細かいこと言ってゴメンなさい <(_ _)>
by カーミン (2016-02-13 14:33)
複雑そうで単純な内容だと思います。
「階段」というテーマを「非常階段」にしたことで、男女二人の
関係もなんとなくややこしくしたくなったのではと。
リンさんにはもっと深い読む人を感動させるような作品を期待
してしまいます。
偉そうなコメントごめんなさい。
公募ガイドはとてもレベルが高いと思います。リンさんは実力が
あるのだから、落ち込まないで頑張って下さい。応援しています。
by dan (2016-02-14 21:49)
そうですねえ。
芯になるアイデアは面白いと思いましたが、いくつか違和感が。
カーミンさんのおっしゃることもそうですね。
あと、25階以上あるホテルの非常階段が外階段と言うのはあるのでしょうか?
建物の中に階段があると思うんですが。
例えば外階段が非常階段の、もう少し小さなビルにするとか、そのビルの持ち主が主人公の夫の知り合いで、ビル全体をその日借りたとか。
ちょっと大げさすぎるかな。
そうか~
階数の少ない非常階段だと二人が仲互いしないかもね。
そうだ、嘘の火事を起こして部屋に閉じ込めるとか。
そうすると「階段」テーマにならないしね。
難しいものです。
えーと、上記のコメントを書いてからちょっと調べてみましたが、避難階段には三種類あるようですね。
屋内避難階段、屋外避難階段、特別避難階段。
で、15階以上の建物には特別避難階段の設置が義務付けられているとか。
特別避難階段と言うのはちゃんと防火構造で、外気が入ったりバルコニーがあったりしないといけないらしいですね。
特別避難階段が義務付けられているのに更に外階段を付けるのはコストの面でしないのか、外階段はつけてはいけないのか、も一つはっきりしませんでした。
長々とすみません。
高層ビルには外階段が付いているイメージがなかったもので調べちゃいました。
by 海野久実 (2016-02-14 21:49)
あ、またdanさんとニアミス。(というか、同時刻!)
そうですよね。
選ばれるのはたった一篇だけ。
最優秀賞に入るのは、かなりのレベルの作品でも運まかせと言う感じがしますね。
めげずに継続あるのみだと思います。
でも僕は中断していますねえ(笑)
by 海野久実 (2016-02-14 21:56)
シニカルな大人のショートストーリーでやすね。
で、果たして仕掛けた側は 同じ状況に置かれたらどうなるのか気になりやす。
by ぼんぼちぼちぼち (2016-02-15 17:05)
<SORIさん>
ありがとうございます。
最上階の二人、結局同じ穴のむじなだったりして(笑)
by リンさん (2016-02-15 18:34)
<カーミンさん>
ありがとうございます。
そうですよね~
私も読み返してみて、なんだかちょっと恥ずかしいですね。
ちょっと無理がありますよね。
TO-BEになってから、何となく構えてしまっているような気がします。
虎の穴の時の方が、のびのび書けたかな~と^^;
応募数もレベルも高いからですかね。
by リンさん (2016-02-15 18:38)
<danさん>
いつも応援してくださってありがとうございます。
こういうテーマって、簡単なようで難しいですね。
ありきたりではダメな気がするし、かといって複雑すぎても纏まらないし。
これからも頑張ってみます^^
by リンさん (2016-02-15 18:40)
<海野久美さん>
ありがとうございます。
danさんと、シンクロしてるんですか(笑)
いろいろ調べてくださってありがとうございます。
私ももっと調べればよかったですね。
最近五十嵐貴久の「炎の塔」という本をよみました。
高層ビルが火事になって非常階段で下りるシーンがあったので、それを思い出して書いたんです。
まあ、それとは違うパターンだし、いろいろ矛盾点はありましたね。
反省です^^;
これからも頑張ってみます。
海野さんも、出しましょ^^
by リンさん (2016-02-15 18:47)
<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
そうですね。今度は仕返しされるかもしれませんね^^
by リンさん (2016-02-15 18:48)
ふうん、応募の形態が変わると選考の基準も変わってくるのか。大変だなぁ。作品を生み出す体力がいるんだな。入選作品読んで勉強するか。
by さきしなのてるりん (2016-03-06 14:48)
<さぎしなのてるりんさん>
ありがとうございます。
そうなんですよ。
すっかり自信を失くしています^^;
by リンさん (2016-03-09 22:20)