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ベランダの男

熱帯夜で眠れずに、ベランダに出た。風はない。
だけどねっとりした空気の中にも、不思議な解放感がある。
ただぼんやりと月を眺める時間も、人生には必要。

ふと、となりのベランダから物音が聞こえた。
そうっと覗き込むと、男が隣の部屋の窓から中を見ている。
えっ、泥棒? もしくは変質者?
どうしよう、と思っていたら、男が私を見た。
「怪しいものじゃありません。僕はこの部屋の住人です」
「えっ? お隣さん?」
隣の奥さんは何度か挨拶を交わしたけれど、ご主人は見たことがない。
「ベランダで、何をしているんです?」
「追い出されたんですよ。たぶん酔いつぶれた僕をベランダに追い出して、鍵を閉めたんです。妻はそういうことを平気でやる女です」
「まあお気の毒に。ではおやすみなさい」
関わりたくないので部屋に戻ろうとしたら、泣きそうな声で呼び止められた。
「すみません。妻に鍵を開けるように言ってください。のどが渇いて死にそうです」
悲痛な声で懇願するので、仕方なく隣の家のチャイムを鳴らした。

「なんですか。こんな夜中に」
不機嫌な顔の奥さんが出て来た。
「私もこんな時間に来たくありません。だけどお宅のご主人が、ベランダで泣いています。鍵を開けて欲しいそうです。よそ様の夫婦げんかに口を出したくありませんが、気になって眠れません。中に入れてあげてください」
「夫はいません」
奥さんが、ため息まじりの声で言った。
「でも、ベランダに……」
「それは夫の幽霊です」
奥さんはバタンとドアを閉めた。ドアには、気持ち悪いお札が貼ってある。
おかしな宗教でもやっているのだろうか。怖そうな奥さんだ。

私は再びベランダに戻った。男はいた。
「奥さんが、あなたのことを幽霊だと言いました」
「違いますよ。生きてますよ。ほら、足だってあるでしょう。妻はおかしな女です。玄関に変な札が貼ってあったでしょう。あれだって、何度言っても剝がしてくれない」
「あの、夫婦の問題は夫婦で解決してください。私もう寝ます。明日も仕事なので」
「じゃあ、せめて飲み物を。缶ビール1本でいいから飲ませてくれ。500ミリ、いや、350ミリでもいい。のどがカラカラなんだ」
男が涙声で訴えたとき、隣の部屋の窓が開いた。

「あんた、いい加減にしなさいよ」
奥さんがお札を掲げると、男は何かを叫びながらふっと消えた。
「えっ、どういうこと? 本当に幽霊だったの?」
「あれは夫の生霊よ」
「生霊?」
「夫はアルコール依存症で入院しているの。よほど治療が辛いのか、ああやって生霊になって帰って来るの。ドアにお札を貼ったものだから、ベランダから入ろうとしたのね」
奥さんは、ベランダにもぺたりと札を貼った。
「これで安心。お騒がせしたわね」

「これで安心」って奥さんは言ったけど、その日から部屋でビールを飲んでいると、誰かの視線を感じてしまう。
「1本だけ。350ミリ、いや、できれば500ミリ、1本だけ飲ませて」
冷房の風に乗って、そんな声が聞こえる。
ああ、私もお札もらってこようかな。

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ぬか床LOVE

ヨネさんとルームシェアを始めて1年。
連れ合いを亡くし、子どもたちは好き勝手に生きている。
境遇が似ていたから意気投合して、一緒に暮らすことにしたんだ。
家賃も食費も光熱費も半分ずつ。
年金が出た日は贅沢したけど、基本的には質素な暮らしだ。
漬け物とみそ汁があればそれでいい。
何しろヨネさんのぬか漬けは最高だ。

楽しい日々は続かなかった。
ヨネさんは、心臓マヒでぽっくり逝っちゃったんだ。
ピンピンコロリがいいねって言ってたけどさ、早すぎるよ。

悲しむ間もなく、ヨネさんの息子がやってきて、金目の物を探し始めた。
宝石や通帳、ベッドの下に転がった100円玉も持って行った。
何だかね、あまりにも情がないよ。
「ちょっとあなたたち、ヨネさんのこと、聞きたくないの? この家でどんなふうに暮らしていたか、知りたくないの?」
「好きなように生きてたんでしょう。それでいいじゃないですか」
「慎ましい人だったよ。働き者できれい好きな人だったよ。お酒を飲むと、たまに寂しいってつぶやいてたよ」
「僕だっておふくろを放っておいたわけじゃないですよ。一緒に暮らそうって何度か声をかけたけど、独りのほうがいいって本人が言ったんです」
「嫁が迷惑そうな顔してたって、ヨネさん言ってたよ。泊りに行ったら物置部屋みたいなところに寝かされたってね」
「あなたに関係ないでしょう。うちにも事情があるんだよ」

息子は立ち上がった。
「ちょっと待って。ヨネさんのぬか漬けがあるよ。食べていくかい?」
「結構です」
「ぬか床、持っていくかい? ヨネさんが大事にしてたものだよ」
「いりませんよ。あんなデカい壺、置き場所がないし、妻が嫌がります」
「そう。ヨネさんの宝物なのにね。じゃあ、あたしがもらうね」
「どうぞ」
息子は帰った。もう会うことはないだろう。

あたしは、ヨネさんのぬか床をかき混ぜた。
毎日毎日、ヨネさんがかき混ぜていた大事なぬか床。
腕を伸ばして、底にあるビニール袋を取り出す。
「ああ、よく漬かっているね」
ぬか床の底に隠した札束。ざっと500万はあるね。
ヨネさん、あんたの息子、ぬか床いらないってさ。あたしにくれるってさ。

絶対あたしに触らせなかった、ヨネさんのぬか床。
あたしの予想は的中したね。
ああ、でもあの息子、ヨネさんのぬか漬けを少しでも懐かしがったら、宝物の正体を教えてあげたのに。
仕方ないね。ありがたく使わせてもらうよ。
冥途の土産に、海外旅行でも行こうかね。

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宮本商店の笹飾り

宮本商店でガムを買ったら、おつりと一緒に短冊を渡された。
「願い事を書いて、店先の笹に吊るしな」
「いらないよ」
「書きなよ。あんた小学生の頃、うちの笹に吊るした願い事が叶ったんだろう。万歳三唱しながら報告に来たじゃないか」
「いつの話? おばちゃん、僕はもう高校生だよ」
僕は、ガムと小銭をポケットに入れて、短冊を置いて店を出た。
店先の笹飾り。小学生の僕は、何を願ったんだっけ?

宮本商店は、5年前にコンビニになったけど、僕らは今も宮本商店と呼んでいる。
近所のおばさんのたまり場だった店は、学生やトラックの運転手がたくさん来るようになった。

家に帰ると、中学生の妹が短冊に願い事を書いていた。
「お帰り。短冊、お兄ちゃんの分もあるよ」
「いらねえよ。そんなの書いてどうするんだよ」
「宮本商店の笹に飾るの。だって、お兄ちゃんの願い事、叶ったんでしょう」
「いつの話だよ」
僕はソファーに寝そべりながら考えた。
小学生の僕は、どんな願い事をしたんだっけ?
成績が急に上がった記憶はない。
初恋が実ったのは中2だし、懸賞が当たったこともない。

「書けた。お兄ちゃん、一緒に吊るしに行こう」
「やだよ。ひとりで行けよ」
「もう暗いもん」
台所から母が顔を出す。
「行ってあげなさい。女の子ひとりじゃ物騒よ」
僕は渋々立ち上がり、妹と一緒に家を出た。

田舎の道は真っ暗だ。
宮本商店の灯りだけが、砂漠のオアシスみたいに輝いて見える。
「おまえ、何を願ったの?」
「25メートル泳げますように」
「は、まだ泳げないの? だせえ」
「7月中には泳げるようになるよ。願いが叶うから」
妹は、真剣な顔で短冊を吊るした。
店の中を覗くと、おばちゃんはまだレジにいた。
笑顔だけど、何となく疲れているように見える。
客が帰ると、肩を落として腰をポンポンと叩いた。

「お兄ちゃん、宮本商店がコンビニになってよかったね。それまでこの町にコンビニなかったもんね」
妹の言葉に、僕はハッとした。思い出した。
小学校の時の願い事。

『宮本商店が、コンビニになりますように』だった。

それはたぶん、僕が短冊に書く前に決まっていたことなんだろう。
だけど願いが叶ったと思い込んで、万歳三唱をしたアホだった。
笹に吊るされた短冊の中に、やけに達筆なものがあった。
『いいアルバイトが見つかりますように 店主』

今度は僕が、おばちゃんの願いを叶えてやろうかな。

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