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優しいライオン

休日は動物園に行く。家族連れに混ざって、さえない中年男がひとり。
目指すのは、ライオンだ。僕はライオンの檻の前で数時間を過ごす。
ライオンは静かな深い瞳で、僕の話を聞いてくれる。

僕にはわかる。このライオンは父の生まれ変わりだ。
売れない画家だった父は身体が弱く、志半ばでこの世を去った。
僕が15のときだった。
父はいつも言っていた。
「生まれ変わったらライオンになりたい。誰よりも強く逞しいライオンになりたい」

初めてこのライオンに会ったとき、懐かしさを感じた。
このライオンは、父の生まれ変わりだ。
目が似ている。穏やかでどこか悲しみを含んだ目だ。
そして何より、父が描いたライオンの絵にそっくりなのだ。

「ねえ父さん。僕も父さんみたいに好きなことを仕事にしたかった。毎日満員電車で会社に行って、上司と後輩に気を遣い、家に帰れば妻の愚痴。子どもの教育費がどうとか、ママ友がどうとか。母さんはそんな愚痴は言わなかったよね。絵が売れたらご馳走作ってくれたよね。懐かしいな。うちは子どもが生まれてから手抜き料理ばかりだ」

「父さん、また来たよ。実はさ、日曜は妻が家でアロマ教室やってて居場所がないんだ。アロマ教室だかお喋り教室だか分からないくらいうるさいんだ」

ライオンは、僕の愚痴をじっと聞いてくれる。だから僕は甘えてしまった。
家族に言えない愚痴を、父さんは優しく聞いてくれた。

ある日、いつものように動物園に行くと父のライオンがいなかった。
「あのライオンはどうしたんです?」
近くにいた職員に尋ねた。
「ああ、少しの間お休みです。ちょっと元気がなくてね。ストレスかな」
ストレス? 僕が毎週愚痴を聞かせたから?
ごめんよ、父さん。ごめんよ、ライオンを楽しみにしていた子どもたち。
僕は、反省しきりで家に帰った。

家に帰ると、息子の友樹が絵を描いていた。
「パパ、おかえり」
「何の絵を描いているんだ?」
「ライオンだよ」
それはライオンがサバンナを走っている絵だった。
躍動感が伝わる。小学生とは思えないほど上手い。
隔世遺伝だ。どことなく、父の絵とタッチが似ている。
父が描いたライオンの絵も、こんなふうに走っていた。
「強くて逞しいライオンだよ。ぼく、ライオンが好きなんだ」
そうか。父がなりたかったのは、サバンナを走るライオンだ。
動物園で中年男の愚痴を聞くライオンじゃない。

「友樹、このライオンはおじいちゃんだ」
「えー、違うよ。おじいちゃんじゃないよ。若いライオンだよ」
友樹は再び夢中になって絵を描き始めた。
息子に絵の才能があることを、僕はまるで知らなかった。
家族に向き合わなかったくせに、文句ばかり言っていた。

今度友樹を連れて動物園に行こう。
あのライオンに自慢の息子を紹介したい。
もう愚痴は言わないから、また話を聞いてほしい。
父さんじゃないかもしれない。きっと違う。
それでも僕は、優しいライオンが大好きだ。


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