優しい物々交換 [ファンタジー]
いつも時間に追われていた。
朝ご飯、息子二人と夫の弁当、洗濯、9時から3時までのパート仕事。
買い物と掃除を済ませると、あっという間に夜だ。
自分の時間なんてまるでない。
ハンバーグを作ろうとしたら、卵がないことに気づいた。
慌ててエプロンを外し、財布だけ持って夕暮れの街に出かけた。
途中の古い家に漂う金木犀の香りに足を止めた。
垣根の中から、杖をついたおばあさんが顔を出した。
「いい香りでしょう。よかったらお茶でもいかが?」
「いえ、私とっても忙しいので。買い忘れた卵を買いに行くところなんです」
「まあ、卵なら家にあるわ。差し上げるわよ」
おばあさんはそう言うと家に入って卵を1パック持ってきた。
「私は食べないからどうぞ」
「それじゃあ、お金を払います」
「いいのよ。そうねえ、それじゃあ、その鈴と交換しましょう」
おばあさんは私の財布に付いている古ぼけた鈴を指さした。
「物々交換よ。それならいいでしょう」
おばあさんは、ゴミと言われても仕方ないような鈴を嬉しそうに受け取った。
いくらなんでも、タダ同然で卵をもらう訳にもいかず、翌日スーパーでみかんを買っておばあさんを訪ねた。
「あらまあ、悪いわ。それならまた物々交換しましょう。あなたの欲しいものを言ってちょうだい」
「欲しいものなんてありません。私、もう行かないと。時間がないんです」
「あなたいつも時間がないのね。そうだ、それなら私の時間と交換しましょ」
「時間と交換?」
「私は時間を持て余しているの。だから私の1時間と、そのみかんを交換しましょ」
よく意味が解らなかったが、とりあえずみかんを押し付けて帰った。
家に着いたのは午後4時。急いで掃除をして洗濯物を取り込んでアイロンがけを済ませて時計を見ると4時。
え? どういうこと? 帰って来てから1分も経っていない。
スマホで時間を確かめたがやはり4時で、夕飯の支度を始める5時まで、まるまる1時間残っている。
ああ、そうか。きっとこれが、おばあさんと交換した1時間だ。
なんだかキツネにつままれたような気分だけど、私はその1時間でゆっくりコーヒーを飲んで、読みたかった本を読んだ。
翌日、再びおばあさんを訪ねた。
「ウールのブランケットです。これと、おばあさんの時間を交換してください。出来れば2時間」
「いいわよ。素敵なブランケットね」
こうして2時間を手に入れた私は、ずっと見られずにいた映画のDVDを観た。
なんて自由。なんという充実感。
私はだんだん欲張りになった。いくらでも時間が欲しい。
毎日おばあさんと時間の物々交換をした。
交換する物は、引き出物でもらった食器や着なくなったカーデガン、お菓子や本。
おばあさんは何でも喜んでくれた。
時間はだんだん長くなり、3時間から5時間をもらうことが多かった。
その時間で友人と会ったり、ショッピングをしたり、映画を観たりした。
しかし時間がいくらでもある生活に慣れると、あえて出かけなくてもいいと思うようになった。
だらだら過ごし、いつでも出来ると思うと、家事も自然とおろそかになる。
晩のおかずもデパ地下の惣菜で済ませるようになった。
「お母さん、制服のボタン付けてって言ったよね」
「俺のスーツ、クリーニング出してくれなかったの?」
私の答えはいつも同じだ。「明日やるわ」
そして翌日、いつものようにおばあさんの家に行った。
ボタン付けとクリーニング、今日は余計に時間をもらおう。
おばあさんの家は、いつもと違った。
白と黒の幕が張り、訃報を告げる張り紙があった。
ちょうど家から出てきた、おばあさんに目元が似ている女性に声をかけた。
「どなたか、お亡くなりになったんですか」
女性は泣きはらしたような目で私を見た。
「母が亡くなりました。昨夜急に」
「まあ…」
「母は余命宣告を受けていました。だけどまだ時間があるはずだったんです。だけど時計が止まるように突然、母の時間は止まってしまいました」
女性は「それでは」と深く頭を下げて家の中に入った。
私は立ちすくみ、雷に打たれたように動けない。
体中が震えた。おばあさんの時間を、私が奪った。
だらだらと、意味もなく過ごした時間は、おばあさんの大切な時間だった。
崩れそうになりながら、「ごめんなさい」と心の中でつぶやいた。
以前と同じ日常が戻った。時間に追われる日々。
だけどその時間の大切さが、今ならわかる。
どんなに忙しくても、おばあさんの家の前では立ち止まる。
金木犀も、もう香らない。寂しい空き家になった庭に向かって「ありがとう」と手を合わせる。
にこやかに笑うおばあさんが立っているような気がしたが、そこにはコスモスが優しく揺れるだけだった。
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朝ご飯、息子二人と夫の弁当、洗濯、9時から3時までのパート仕事。
買い物と掃除を済ませると、あっという間に夜だ。
自分の時間なんてまるでない。
ハンバーグを作ろうとしたら、卵がないことに気づいた。
慌ててエプロンを外し、財布だけ持って夕暮れの街に出かけた。
途中の古い家に漂う金木犀の香りに足を止めた。
垣根の中から、杖をついたおばあさんが顔を出した。
「いい香りでしょう。よかったらお茶でもいかが?」
「いえ、私とっても忙しいので。買い忘れた卵を買いに行くところなんです」
「まあ、卵なら家にあるわ。差し上げるわよ」
おばあさんはそう言うと家に入って卵を1パック持ってきた。
「私は食べないからどうぞ」
「それじゃあ、お金を払います」
「いいのよ。そうねえ、それじゃあ、その鈴と交換しましょう」
おばあさんは私の財布に付いている古ぼけた鈴を指さした。
「物々交換よ。それならいいでしょう」
おばあさんは、ゴミと言われても仕方ないような鈴を嬉しそうに受け取った。
いくらなんでも、タダ同然で卵をもらう訳にもいかず、翌日スーパーでみかんを買っておばあさんを訪ねた。
「あらまあ、悪いわ。それならまた物々交換しましょう。あなたの欲しいものを言ってちょうだい」
「欲しいものなんてありません。私、もう行かないと。時間がないんです」
「あなたいつも時間がないのね。そうだ、それなら私の時間と交換しましょ」
「時間と交換?」
「私は時間を持て余しているの。だから私の1時間と、そのみかんを交換しましょ」
よく意味が解らなかったが、とりあえずみかんを押し付けて帰った。
家に着いたのは午後4時。急いで掃除をして洗濯物を取り込んでアイロンがけを済ませて時計を見ると4時。
え? どういうこと? 帰って来てから1分も経っていない。
スマホで時間を確かめたがやはり4時で、夕飯の支度を始める5時まで、まるまる1時間残っている。
ああ、そうか。きっとこれが、おばあさんと交換した1時間だ。
なんだかキツネにつままれたような気分だけど、私はその1時間でゆっくりコーヒーを飲んで、読みたかった本を読んだ。
翌日、再びおばあさんを訪ねた。
「ウールのブランケットです。これと、おばあさんの時間を交換してください。出来れば2時間」
「いいわよ。素敵なブランケットね」
こうして2時間を手に入れた私は、ずっと見られずにいた映画のDVDを観た。
なんて自由。なんという充実感。
私はだんだん欲張りになった。いくらでも時間が欲しい。
毎日おばあさんと時間の物々交換をした。
交換する物は、引き出物でもらった食器や着なくなったカーデガン、お菓子や本。
おばあさんは何でも喜んでくれた。
時間はだんだん長くなり、3時間から5時間をもらうことが多かった。
その時間で友人と会ったり、ショッピングをしたり、映画を観たりした。
しかし時間がいくらでもある生活に慣れると、あえて出かけなくてもいいと思うようになった。
だらだら過ごし、いつでも出来ると思うと、家事も自然とおろそかになる。
晩のおかずもデパ地下の惣菜で済ませるようになった。
「お母さん、制服のボタン付けてって言ったよね」
「俺のスーツ、クリーニング出してくれなかったの?」
私の答えはいつも同じだ。「明日やるわ」
そして翌日、いつものようにおばあさんの家に行った。
ボタン付けとクリーニング、今日は余計に時間をもらおう。
おばあさんの家は、いつもと違った。
白と黒の幕が張り、訃報を告げる張り紙があった。
ちょうど家から出てきた、おばあさんに目元が似ている女性に声をかけた。
「どなたか、お亡くなりになったんですか」
女性は泣きはらしたような目で私を見た。
「母が亡くなりました。昨夜急に」
「まあ…」
「母は余命宣告を受けていました。だけどまだ時間があるはずだったんです。だけど時計が止まるように突然、母の時間は止まってしまいました」
女性は「それでは」と深く頭を下げて家の中に入った。
私は立ちすくみ、雷に打たれたように動けない。
体中が震えた。おばあさんの時間を、私が奪った。
だらだらと、意味もなく過ごした時間は、おばあさんの大切な時間だった。
崩れそうになりながら、「ごめんなさい」と心の中でつぶやいた。
以前と同じ日常が戻った。時間に追われる日々。
だけどその時間の大切さが、今ならわかる。
どんなに忙しくても、おばあさんの家の前では立ち止まる。
金木犀も、もう香らない。寂しい空き家になった庭に向かって「ありがとう」と手を合わせる。
にこやかに笑うおばあさんが立っているような気がしたが、そこにはコスモスが優しく揺れるだけだった。
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2016-11-24 19:31
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コメント(14)
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金木犀が香り始めて香らなくなるまでのほんのわずかの季節の移り変わりを入れることで、とても素敵なお話になっていますね。
結局お婆さんの時間を奪ってしまっていたという結末は早い段階で想像がつきます。
その辺を読者に悟られないように書ければいいのですが、難しいですよね。
オチをカムフラージュ出来る設定をなにか考えなくちゃね。
それとも主人公がお婆さんが日に日に衰えていくので彼女の時間を奪っているのに気がついていて、それでも時間と交換するのをやめられない心理を書くとか。
あれこれ考えてると人の作品でも楽しいです(笑)
by 海野久実 (2016-11-25 09:11)
楽しませてもらいました。よかったです。
金木犀を含めて、ぼくも海野さんと同じようなことを思いました。オチが読めて、その意味では驚きはなかったのですが、「余分な時間があると時間をおろそかに使ってしまう」という段は、まさに自分のことを言われているようでドキッとしました(この春、早期退職したので……笑)。
それと、最後は「(気づかせてくれて?)ありがとう」より、やっぱり、「ごめんなさい」の方が、自分としてはしっくりくるかなと思いました。……偉そうなことを言ってすみません。国語の教員をしていたので、自分では書けなくても偉そうに論評するのは得意!
それにしても、リンさんは文章力がありますね。これみよがしの派手さはないけど、安心して物語の時間にひたっていられます。
by ひと休み (2016-11-25 09:44)
リンさんさん こんばんは
おばあさんの大切な命の時間と引き換えに、時間の大切さを教わったのですね。時間は使い方によって大きな意味を持ちますね。おばあさんは、残された時間で、そのことを教えてあげたかったのかもしれません。
by SORI (2016-11-25 18:49)
大切なことに気づいたのですね。
私もこのお話を読んで改めて大切に使わなくっちゃと
思いましたよ~
朝 家のことをバタバタやって パートして帰宅して
晩御飯作って お風呂入っての繰り返しですもんね^^;
あっという間に40半ば いつの間にそんな時間が
経ったんでしょ(笑)
by みかん (2016-11-25 19:55)
こんばんは。
私も、自分の事だけを楽しめていた
若い頃が懐かしい。
今はそういうわけにはいかない環境では
あるけれど、でもだからこそ限りある時間を
大切にしようって思える。
それでも時間に追われ疲れてくると愚痴も出てくる。
おばあさんの時間と引き換えていたっていうのは
とても悲しい真実だったけれど、
でも改めて時間の大切さを教えてもらえた気がしました。
by まるこ (2016-11-25 23:19)
慌ただしい日常とお婆さんの命の貴重な時間。
考えようによっては残酷な話なのに、やさしい空気も
感じられるのは、何気なく描かれている金木犀の香りが
効いていると思います。
いい作品ですね。
by dan (2016-11-25 23:27)
感動的なお話でやした。
そう、時間って いくらでもあると思うとだらだら使ってしまうんでやすよね(◎o◎)b
by ぼんぼちぼちぼち (2016-11-27 15:39)
<海野久実さん>
ありがとうございます。
やっぱりわかってしまいましたか。
おばあさんという時点で、想像つきますよね。
うーん、難しい。
by リンさん (2016-11-27 16:06)
<ひと休みさん>
ありがとうございます。
最後は、素直に「大切なことに気づかせてくれてありがとう」と書けばよかったですね。
ただの「ありがとう」だと、やはりちょっと違う気がします。
ご意見ありがとうございます。
国語の先生だったのですね。
私、国語だけは得意だったので、中高とも、国語の先生はみんな好きでした。
by リンさん (2016-11-27 16:12)
<SORIさん>
ありがとうございます。
忙しい時間も、年を取ってから振り返ると大切だったと、年配の方が言っていました。
その通りだと思って、日々を過ごすようにしています。
by リンさん (2016-11-27 16:15)
<みかんさん>
ありがとうございます。
私も同じですよ。
今は家事のほかに、娘の送迎があって、それがなかなか大変です。
まあ、こういう時間もきっと大切なんですね。
by リンさん (2016-11-27 16:24)
<まるこさん>
ありがとうございます。
女性は仕事だけしているわけにはいきませんからね。
まるこさんも、お母様のこととか、いろいろ大変でしょうね。
でも、家族のために何かするのは幸せなことかもしれませんね。
by リンさん (2016-11-27 16:26)
<danさん>
ありがとうございます。
金木犀の香りって、忙しくてもふと立ち止まってしまいますよね。
このおばあさんも、金木犀みたいな存在だったかもしれません。
by リンさん (2016-11-27 16:28)
<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
私も休みが何日もあると、だらだらしてしまいます。
時間が限られていると、段取りを考えたりして要領よく動けるんですけどね。
by リンさん (2016-11-27 16:31)