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冷たい雨

冷たい雨が降っている。
家を飛び出してから、傘を忘れたことに気づいた。
今さら取りに戻れない。二度と帰らないつもりで出てきたのだから。

夫は私以外の女を家に入れていた。
まるで「私が奥さんよ」と言わんばかりに振舞う女に、夫は何も言わない。
私より、あの女を選ぶのだ。あの図々しい、里子という女。

みぞれ混じりの雨が冷たい。
髪から足のつま先まで、ぐっしょりと濡れている。
どうしてこの靴を履いてきたのだろう。お気に入りなのに。
とりあえず傘を買おうと思ったけれど、お金がない。
何も持たずに出てきてしまった。

寒い、冷たい、心まで凍ってしまいそうだ。
私は恐らく捨てられるのだろう。
夫はあの女を選ぶ。優しい声で「里子」と呼ぶ。
私は長いこと、名前を呼んでもらっていない。
そもそも私は、どんなふうに呼ばれていた?
そもそも、ここはどこかしら。
寒さで思考能力が衰えてしまったようだ。

「青木さん? まあ、ずぶ濡れ」
若い可愛らしい女性が、駆け寄って私に傘をさしかけた。
誰かしら。お隣のお嬢さんだったかしら。
オチビさんだと思っていたら、こんなに大きくなったのね。
「青木さん、帰りましょう。風邪をひいてしまうわよ」
女性が傘を私の方に傾けた。自分の肩が濡れているのに、なんて優しい子。
傘を持たない方の手で、私の手をぎゅっと握っている。
「さあ、家に着いたわよ」
女性に促されて家に入った。水滴がぽたぽたと、とめどなく落ちる。
夫がタオルを持ってきて、玄関先で髪を拭いてくれた。
ああ、結局帰ってきちゃった。やっぱり家が一番だわ。
私どうして家出なんかしたんだろう。
優しく迎えてくれる夫がいるのにね。

「雨の中をふらふら歩いていて、慌てて連れて来たんです」
「ありがとうございます。気を付けていたんですが、いつの間にか出て行ってしまって」
「青木さん、たまたま私が見つけたからよかったけど、施設に入れることも考えた方がいいかもしれませんよ。車に轢かれたら大変ですよ」
「そうですね。考えてみます。どうもこの頃、僕のことを死んだ親父だと思っていて、妻にヤキモチを妬くんですよ。何だか切なくてね」
「困ったことがあったら連絡くださいね。そのためのケアマネージャーですもの」

ああ、すっかり眠ってしまった。部屋が温かすぎるのよ。
ああ、身体が重いこと。
あらまあ、雨がすっかりやんでいるわ。
「ちょっと里子さん、大きな虹が出てるわよ。ちょっといらっしゃいな」
エプロンで手を拭きながら、嫁の里子が隣に並んだ。
「きれいですね。お義母さん」
あらいやだ、涙ぐんでいる。そんなにきれい? いい嫁だね。
明日は晴れるといいね。

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コメント 4

雫石鉄也

お見事です。前半で主人公のかわいそうな境遇を
描写しておいて、後半のどんでん返しに持っていくのが
うまいです。ショートショートのお手本のような作品ですね。
by 雫石鉄也 (2020-03-17 13:55) 

ぼんぼちぼちぼち

いやはや、これ、マジありそうでやすよ。脳梗塞の後遺症で老健に入所してる友人がいるんでやすが、周りのお年寄り観察してるとそう思いやす。(今はコロナの影響で面会できないけど)
by ぼんぼちぼちぼち (2020-03-18 20:53) 

リンさん

<雫石鉄也さん>
ありがとうございます。
ときどき正常に戻るから、なかなか施設に入れることが出来ずにいるのでしょうね。
by リンさん (2020-03-19 21:10) 

リンさん

<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
こんなふうになると、攻撃されるのは嫁なんですよね。
切ないですね。
by リンさん (2020-03-19 21:13) 

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