真夜中の黒猫さん

いつからだろう。真夜中になると、黒猫がやってくる。
赤い鈴を付けている。
猫はいつの間にか部屋にいて、僕のベッドの足元に、当たり前のように座る。
たぶん猫の幽霊だ。
だって猫に触れようとした僕の手は、すうっとその体を通り抜けたのだから。
幽霊だけど、ちっとも怖くない。
猫はあまりに気ままで無防備で、そしてあまりに可愛かった。

僕は猫を待つようになった。
どうせ暑くて眠れない。暑くなくても眠れない。
睡眠よりも、僕の心は猫を求めていた。
小さな鈴の音とともに、猫が来る。
あくびをしたり、毛づくろいをしたり、大きく伸びをしたりする。
そして朝になると、最初からいなかったように消えてしまう。
鳴きもせず、振り向きもせず、鈴の音だけを残していく。

会社のノルマがきつくて、要領の悪い僕は叱られてばかり。
心も体もぼろぼろだけど、僕は毎日会社に行く。
田舎で一人暮らしをしている母が、電話の度に「帰っておいで」と言う。
だけど、今帰ったら逃げるみたいだし、負け組になってしまう。
「ねえ猫さん、僕はどうしたらいいだろう」
話しかけても知らんぷりだ。それでいい。君だけが、僕の心を癒してくれる。

数日後、会社の営業車を運転していたら、目の前に黒い猫が飛び出してきた。
あわててハンドルを切ったら、ガードレールにぶつかった。
幸い怪我はなかったけれど、会社の車をぶつけたことで、僕の立場は厳しくなった。
上司の風当たりがますます強くなり、僕はとうとう会社を辞めた。
その日から、黒猫は姿を見せなくなった。

車の前に飛び出してきた黒い猫、一瞬だけど鈴の音がした。
赤い鈴かどうかは、よく見えなかった。
まさか、あの猫じゃないよな。
荷造りをしながら、猫の定位置だったベッドを見た。
もちろん、気配ひとつない。

翌日、僕は田舎に帰った。
潮の香りがする。大きく息を吸い込んだら、やっと普通の呼吸が出来た。
「おかえり」
母が優しく出迎えてくれた。
涼しい風が入る畳の部屋で、僕は死んだように眠った。

目が覚めたら、足元に黒猫がいた。赤い鈴を付けている。
「あれ、おまえ、僕についてきたのかい？」
猫は、ゆっくり起き上がって、僕の手をペロッと舐めた。
温かい。えっ？　生きてる？

「起きたのかい？　晩ごはん出来てるよ」
母がふすまから顔をのぞかせた。
「母さん、猫がいる」
「ああ、ひとりで寂しいから、飼い始めたんだ。毎日、寂しい寂しいって話しかけてたら、あんたが帰ってきてくれたよ」
母が笑った。

僕は猫を抱き上げた。
「もしかして、母さんの策略か？」
猫は知らんぷりで、毛づくろいを始めた。
おまえ本当は、全部分かってるんじゃないのか？

コメント 10

リンさんさん　おはようございます。
不思議だけれども、なぜか静かに流れるような物語です。幽霊ではなく生霊だったのですね。
前物語のテーマも生霊だったですね。
by SORI (2023-08-05 03:32) 

お母様の淋しいお気持ちが、
黒猫ちゃんに伝わって、
主人公を故郷に帰してくれたのですね。

それにしても、
今の社会の、
息苦しさが読み取れます。
ノルマやパワハラ、
小さな失敗も許されない・・・。
世の中全体が、もっと余裕を持てればいいのですが。

by 青山実花 (2023-08-05 06:57) 

猫さん　やさしい。お母さんの気持ちを察して、息子を戻してくれたんですね。
by たまきち (2023-08-06 05:33) 

う~ん。いちおうハッピーエンドなんですが、素直に良かったね、とは私は思えませんでした。
主人公のその後が気になります。お母さんと猫に見守られて、それから幸せに暮らしてとして、猫も母も主人公より先に死ぬでしょう。それから主人公はどうするのですか。
by 雫石鉄也 (2023-08-07 14:03) 

ラストの読めない展開で、面白かったでやす！
最初、猫は別れたか死んだ彼女かな？と予測しやしたが、いい意味で裏切られやした。
by ぼんぼちぼちぼち (2023-08-07 20:32) 

＜SORIさん＞
ありがとうございます。
今回は、不思議で可愛いネコちゃんでした。
猫の生霊は、怖くないのかも＾＾
by リンさん (2023-08-10 22:21) 

＜青山実花さん＞
ありがとうございます。
本当ですね。
最近の会社はすぐに結果を求めるから。
長い目で社員を育てる余裕がないんですね。
by リンさん (2023-08-10 22:33) 

＜たまきちさん＞
ありがとうございます。
ネコは、思う以上に人間の気持ちを察しますよ。
うちのネコも、優しいです（親バカ）
by リンさん (2023-08-10 22:36) 

＜雫石鉄也さん＞
ありがとうございます。
よくわかります。
そういう心配も、もちろんありますよね。
ただ、あのまま都会にいたら、たぶん体調を崩していたでしょう。
田舎で就職して、穏やかに暮らすのもいいかもしれません。
by リンさん (2023-08-10 22:42) 

＜ぼんぼちぼちぼちさん＞
ありがとうございます。
別れた彼女！
その説もロマンチックでいいですね。
by リンさん (2023-08-10 22:44)