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ホチキッス [男と女ストーリー]

中条さんは文房具マニアだ。デスクの上は遊園地みたいだ。
パラソルみたいな七色のマーカーや、マーブル模様のボールペン、ハサミはワニの形だし、定規はピアノの鍵盤になっている。

瀬尾君は、この部署に移動して半年になる。
へんてこな文房具を愛する中条さんが気になっている。
中条さんは、誰にでも惜しげなく文房具を貸す。
マカロンみたいな消しゴムも、パンダの付箋も、カタツムリのセロテープも笑顔で差し出す。
だけど、なぜかホチキスだけは、誰にも貸さなかった。

ある日瀬尾君は見てしまった。
中条さんの引き出しに、ひっそり収まるホチキスを。
それは古い紺色のホチキスだった。カラフルなハートのクリップの隣で、それはやけに地味だった。
瀬尾君は不思議に思った。なぜそれだけが正統派の事務用品なのだろう。
可愛いホチキスって売っていないのかな。
地味だから誰にも貸したくないのかな。

「あのホチキスは、中条さんの恋人の形見だよ」
飲み会の席で、先輩社員が言った。
「同じ職場に恋人がいたんですか」
「ああ、結婚話も出てたけど、3年前に事故で亡くなったんだ」
瀬尾君は思った。
中条さんがヘンテコな文房具を集めるようになったのは、彼の形見のホチキスが寂しくないように、引き出しをカラフルにしているのかもしれない。
彼女の笑顔の裏には、どれだけの悲しみが隠れているのだろう。
くるくる回る地球儀が付いたシャープペンシルも、光るロボット型の電卓も、きっとあのホチキスにはかなわない。

すっかり冷え込んだ11月の下旬、瀬尾君は営業先のトラブルで、すっかり帰りが遅くなった。
誰もいないと思ったら、オフィスに弱い灯りが点いていた。
残っていたのは中条さんだ。彼女がこんな遅くまで残業しているなんて珍しい。

中条さんは、あのホチキスを見ていた。
包みこむように両手に乗せて、愛おしそうに眺めている。

中条さんは、そっと唇を寄せて、ホチキスに優しくキスをした。
瀬尾君は、慌てて身をひるがえし、忍者のようにロッカーの陰に隠れた。
中条さんは、暫く頬を寄せていたホチキスを仕舞って、静かに立ち上がった。
歩き出した彼女が泣いていたのは、暗くても何となくわかった。
中条さんは時おり、誰もいなくなったオフィスで、恋人が残したホチキスを抱きしめているのだ。

彼女が帰った後、瀬尾君はそっと引き出しを開けた。
古くて地味な紺色のホチキスに、中条さんの唇の跡が付いている。
さくら貝みたいに可愛らしい唇の跡がライトに浮かび上がっている。
瀬尾君は、愛おしくてたまらない気持ちになった。
間接キス……したい。

瀬尾君は、ホチキスを取り出して、中条さんの唇の跡が残ったところに自分の唇を近づけた。
唇が触れそうになった時、突然ホチキスがパックリ口を開けた。
「えっ?」と思ったのもつかの間、ホチキスは瀬尾君の下唇にガシャンと針を刺して、どこかへ消えてしまった。
「いててて。すみません。もうしません」
瀬尾君は、ヒイヒイ言いながら、ホチキスの針を外した。
血がにじんだ口の中は、錆びた鉄と情けない罪悪感の味がした。

翌日、中条さんは引き出しを開けて、ホチキスがないことに気づく。
だけど彼女は、まるで気にしない。
いつか別れが来ることを、わかっていたようだ。
「瀬尾君、今度ホチキス買いに行くの、付き合ってくれる?」
「も、もちろん」
微笑む中条さんの唇に、思わず赤面する瀬尾君だった。

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