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不快な通勤快速 [コメディー]

電車が揺れるたびに、コーヒーの空き缶が右へ左へゴロゴロ転がった。
今日の電車は、珍しく空いている。

私の右隣に座る女が言った。
「非常識ね。電車の中に空き缶を捨てるなんて。飲み終わって邪魔になったからって、平気でポイするなんて人間のクズよ」
私の左隣に座る男が、それに反論した。
「言い過ぎ。捨てたかどうかわからないよ。足元に置いたら転がっちゃったのかも。何でも悪く取るのは君の悪い癖だ」
「はあ?何いい人ぶってるのよ。このコウモリ男。誰にでもいい顔するから出世できないのよ」
「君みたいに粗探しする女が、陰でお局様なんて呼ばれるんだろうな」
「粗探しなんてしてないわ。私は正義感が強いだけよ」

「あの……」と私は、両隣のふたりの顔を交互に見ながら言った。
「席、代わりましょうか?」

この二人は、同じ車両の同じドアから乗ってきたが、まるで他人みたいに私を挟んで座った。二人連れだと分かっていたら席をずらしたのに。

「いいよ。代わらなくて」と男が言った。
「そうよ。見てわかるでしょ。私たちケンカ中なの」
「そうそう。隣に座ったら思い切り脛を蹴られる。そういう女なんだ」
「失礼ね。脛なんか蹴らないわよ。こっちのつま先が痛くなるわ」
ああ、居づらい。
そのときだ。乗って来た男子高校生が、足元の空き缶を蹴った。
その缶は、斜め前に座る老人の足に見事に当たった。

「ちょっと君、電車の中で缶を蹴るなんて非常識よ。おじいさんに謝りなさいよ」
女が言った。
「俺、サッカー部だから、足元に来たものは何でも蹴っちゃうの。そういう習性なの」
高校生は「めんどくせえ」と言いながら、車両を移ってしまった。
「まあ、なんて子。親の顔が見てみたい」
「あのさ、君も悪いよ」と男が言った。
「何が悪いの?」
「君はさっき、あのご高齢の方をおじいさんと呼んだけど、あの人は君のおじいさんじゃない。それに、もしかしたら老けて見えるだけで、そんなに年寄りじゃないかもしれない。おじいさんは失礼だよ。君だっておばさんって呼ばれたら嫌だろう」
「私はおばさんじゃないわ。でもあの人は誰がどう見てもおじいさんよ。要するにあなたは私が言うことを全部否定したいだけなのよ」
「そうじゃないよ。君はもっともらしく正義をかざすけど、根本に愛がない。自己満足なんだ」
「あら、言ってくれるじゃないの。そもそもあなたは……」
「あっ、降りる駅だ。続きは家でやろう」
「望むところよ。あっ、ビールあったかしら」
「コンビニ寄って行こう。久々にバドワイザーの気分」
「いいね。ビールの好みだけは合うわね、私たち」
二人は寄り添って電車を降りた。しんどかった。嵐が過ぎた気分だ。

そう思ったのもつかの間、今度は斜め前の老人が私の隣に移動して来た。
「ねえ、あんた。あたしゃおじいさんじゃないよ」
「はあ、そうですね」
「あたしゃ、ばあさんだ」
「えっ、あっ、そうですか。でも私、関係ないです。さっきの夫婦とは赤の他人です」
「関係あるよ」
老人は、ふふっと笑った。
「あの空き缶を捨てたのはあんただろう。あたしゃ見てたよ。あんたがシートの下に缶を投げるのをね」
あー、生きた心地がしないとはこのことだ。
確かに捨てた。私が捨てた。まさか見られていたなんて。

「あんた、降りるときに缶を拾って行くんだよ。あたしゃ終点まで行くからね。ずっと見てるよ」
老人はニタっと笑って元の席に戻った。
電車が揺れて、空き缶が私の足元に転がって来た。
飲み終わったときよりずいぶん汚れている。
「おかえり」
私は缶を拾い上げて、電車を降りた。あー、しんどかった。

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