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ふたりの縁側 [公募]

「先生、先生」
ぱたぱたと廊下を走ってくるのは、妻のカナコだ。
カナコは私を先生と呼ぶ。
たまには名前で呼んで欲しいが、結婚以来一向に呼び方を変えない。
「先生、こんなところにいたの? ごはんよ」
金木犀が微かに香る午後のリビングに、読みかけの本と老眼鏡。
若いつもりでいても、カナコはそれなりに年を重ねている。

食事が終わると、カナコはパソコンを開く。
「先生、ミステリーって難しいわ。軽いミステリーでいいって言うから引き受けたけど、なんか煮詰まっちゃった」
カナコは小説家だ。かく言う私も小説家だった。
今はすっかり書かなくなってしまったが、文章だったら妻よりも巧い。

「カナコ先生、お邪魔しますよー」
あの声は担当編集者の谷中だ。
相変わらず勝手に上がり込み、自分の家のように冷蔵庫を開けたりする。
もともと私の担当であった彼女は、数年前、カナコに小説を書くことを勧めた。
それが異例の大ヒットとなったのだから、谷中は図々しいだけではなく、優秀な編集者でもあったのだ。

「カナコ先生、どうですか。しばらく休んでいたけど、やっぱり書かないと調子でないでしょ。物書きなんてそんなものですよ。コーヒー淹れますね」
「ありがとう、谷中ちゃん。確かにね、書いているときは夢中になれるんだけどね、つまずいたときに先生のアドバイスがもらえないのは、ちょっとキツイな。先生のダメ出しはすごく的確だったから」
「ああ、わかる、わかる。でもまあ、所詮はひとりで書くものですからね。小説は」
「そうよね」
「ところでカナコ先生、猫を飼い始めたんですか。何だかふてぶてしい顔の猫ですね」
谷中が私を抱き上げた。
「私だ。気安くさわるな」
と言いたいけれど、今の私には「にゃー」という発音しか出来ない。

思い残すことなく、この世とオサラバしたはずだったが、気がついたら猫になってこの家に戻っていた。
気丈で明るいカナコが縁側で一人泣いているのを見て、その手をぺろりと舐めてやった。
「先生」とカナコは私を呼んだ。
「先生によく似た猫ちゃんね。もしかして生まれ変わったの? あはは、まさかね。四十九日が済んだばかりなのに早すぎるわよ」
カナコは、声を出して笑いながら涙を拭いた。
以来私はここにいる。

谷中がコーヒーを三つ淹れた。一つを仏壇に供え「先生、夢の中でもいいから、カナコ先生にダメ出ししてあげて下さいね」と手を合わせた。私にできるアドバイスなどもうない。カナコは立派な小説家だ。
谷中は、くだらない世間話を散々して、ついでのように、小さな仕事を幾つか置いて帰った。
最後に私をしみじみ見て「見れば見るほどブサイクな猫だわ」と、余計なひと言を残して行った。
カナコは立ち上がって大きく伸びをしてから、私をそっと抱き上げた。
「先生、見て。きれいな夕焼けよ」

ひとつ仕事が終わると、ふたりで縁側に座って飽きるほど庭を眺めた。
春には桜、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬には椿。
この庭を眺めながら死にたいと、病院のベッドで何度思ったことか。
好きなことをたくさんして、思い残すことはないと思っていたけれど、大ありだった。
この先何年も、この庭をひとりで眺めるカナコのことを思ったら、胸が潰れそうなほど切なくなった。

「ねえ先生。私ね、先生のことを名前で呼んだことがないの。ああ、人間の先生のことよ。だってね、出逢ったときから先生だったのよ。私、先生のファンだったの。結婚してこの家で一緒に暮らしても、私にとって先生は、尊敬する大好きな先生なのよ」
何だか照れ臭い。出逢った頃と、カナコは全然変わっていない。

日暮れの風に、金木犀の香りが優しく舞い込む。
呼び方なんてどうでもいいさと、私は丸くなって欠伸をした。
「ちょっと肌寒くなってきたね。さあ先生、ごはんにしようか」
カナコが窓を閉めて、戸棚のキャットフードを取りに行く。
私はシッポを振りながら、そのあとを追いかける。
「ああ、たまにはサビの効いた特上寿司でも食べてみたいものだ」
秘かにそんなことを思いながら。


******

公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただいた作品です。
課題は「先生」でした。
佳作も久しぶり。最優秀、そろそろ欲しいニャ~

nice!(11)  コメント(6) 

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コメント 6

雫石鉄也

面白かったです。最後まで読ませるのは、さすがりんさんの文章力です。
「先生」が猫だったことは、もっと後の方が良かったですね。
by 雫石鉄也 (2020-11-10 13:37) 

SORI

リンさんさん こんにちは
しみじみとした雰囲気が感じられるいい作品ですね。奥の深さを感じました。猫ちゃんを先生と呼ぶところが特に感動的です。
by SORI (2020-11-10 15:57) 

ぼんぼちぼちぼち

「私」が亡くなったご主人の生まれかわりの猫だとは、予測できずに惹き込まれて一気に読んでしまいやした。
ラストの一文も効いてやすね!
by ぼんぼちぼちぼち (2020-11-13 13:38) 

リンさん

<雫石鉄也さん>
ありがとうございます。
そうですね。その方が面白かったと思います。
なかなか難しいですね。
by リンさん (2020-11-17 20:54) 

リンさん

<SORIさん>
ありがとうございます。
ネコに付ける名前としてはユニークですね^^

by リンさん (2020-11-17 21:00) 

リンさん

<ぼんぼちぼちぼちさん>
ありがとうございます。
しんみりした終わり方より、明るい方がいいかなと思いました。
いずれ特上のマグロでも食べさせてあげたいですね^^
by リンさん (2020-11-17 21:02) 

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