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最後のドライブ [公募]

75歳になった正吉さんは、運転免許を返納することを決めました。
運転が好きな正吉さんにとって、それは大きな決断でした。
「事故を起こしてからじゃ遅いものね」と、家族はみな大賛成でしたが、私はとても寂しいです。だって私は、正吉さんの車です。
正吉さんは十年間、私を大切に乗ってくれました。私は正吉さんの運転が、とても好きなのです。

うららかな春、桜のつぼみもふくらみました。
正吉さんは、私をていねいに洗ってから、ゆっくり運転席に乗り込みました。
「さて、ドライブに出かけるか」
ひとりごとをつぶやいて、エンジンをかけました。私は思い切って話しかけました。
「最後のドライブですね」
車が話しかけたのに、正吉さんは驚きもせず「そうだね」と言いました。
まるで私が言葉を話せることを、知っているようです。

「君とはいろんなところに行ったね」
「8年前には北海道へ行きましたね」
「あれが最後の遠出だったな」
「カーフェリーに乗ったときは、とても緊張しました」
「車でも緊張するのかね」
「海を渡るのは初めてでしたから」
「そうかい」
正吉さんは笑いながら、ハンドルを右に切りました。
正吉さんの運転はとてもスムーズです。いつだって安全運転です。

「最近はよく、お孫さんの学校のお迎えに行きましたね」
「うん。部活で遅くなると迎えに行ったな」
正吉さんのお孫さんは、私に乗り込むと決まって言いました。
「おじいちゃんの車、演歌ばっかり」
正吉さんはお孫さんのために、よくわからないポップスを無理してかけていましたね。
正吉さんは、ギアを手際よく切り替えながら、急な坂道を上りました。
行き先がわかりました。正吉さんの奥さまのお墓です。
免許を返したら、なかなか行けなくなるから、最後のドライブはここと決めていたのでしょう。

お墓の駐車場で、私は正吉さんを待ちました。
水仙の花が光を集めたようにきれいに咲いています。
正吉さんの奥さまは優しい方でした。
きちんと足をそろえて助手席に座り、ドアを静かに閉めてくれる方でした。
北海道旅行に行ったときはお元気でしたのに、その数年後に亡くなりました。
正吉さんは、奥様とどんなお話をしているのでしょう。

しばらくして、正吉さんが戻ってきました。
「待たせたね」
「いいえ。ぽかぽかして気持ちいいです」
「妻がよろしく言っていたよ。君の静かなエンジン音が好きだったと言っていた」
「嬉しいです。でも、私のエンジン音が静かなのは、あなたのお手入れがいいからです」
正吉さんは、嬉しそうに笑いながら、坂道を下りました。
歩行者がいるときはスピードを緩め、停止線の手前できっちり停まります。

「あの、本当にもう運転しないのですか?」
「ああ、もう決めたんだ」
「もしや、あの日のことがきっかけですか?」
数か月前のことです。正吉さんは、コンクリートの塀に私をぶつけました。
同乗者もなく、本人にも怪我はありませんでしたが、正吉さんはひどく落ち込みました。
正吉さんは、ブレーキとアクセルを踏み間違えてしまったのです。
「やはりね、認めたくないが判断力がにぶっているんだよ。あのときは、君を傷つけてしまってすまなかったね」
「いえ、大したことではありません。きれいに直してくださいましたし」

正吉さんは、交差点をゆっくり左折しました。次の角を曲がれば家に着いてしまいます。
最後のドライブが終わってしまいます。
出来ることならこのままずっと、あなたを乗せて走り続けたい。
そんな私に、正吉さんは優しく言いました。
「孫の春菜が、運転免許をとったんだ。今度から、君は春菜の車になるんだよ」
演歌がきらいなお孫さんは、この春高校を卒業しました。
そうですか。あの子が私を運転するのですね。

家に着きました。正吉さんは慎重に私をガレージに入れました。
私にとって、一番落ち着く場所です。
正吉さんは、エンジンを止めると深く息を吐き、ハンドルを優しく撫でました。
そして私に言ってくれました。
「ありがとう」

最後のドライブが終わりました。そして、正吉さんと私の、最初で最後の会話が終わりました。
桜が満開になるころに、私のお尻に若葉マークが貼られるでしょう。
きっと春菜さんは、ひどく緊張しながらハンドルを握るのでしょうね。
正吉さんにはナイショですが、少しワクワクしています。

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ある童話賞に応募した落選作です。
わりとタイムリーなものをテーマにしてみたのですが、そういうことではなかったみたい^^;


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