SSブログ

田辺さん [男と女ストーリー]

憧れていた田辺さんが会社を辞めた。
退職して、専業主夫になるそうだ。
何でも奥さんは敏腕弁護士で、かなりの高収入らしい。
だから田辺さんが、家事と育児に専念するそうだ。
「よく決断したよね、田辺さん、男のプライドないのかな」
「奥さんってどんな人かな。尻に敷かれてるんじゃない」
そんなふうに陰口をいう同僚もいたけれど、私は立派だと思う。
妻が心置きなく働けるようにサポートするなんて、最高の夫だ。

田辺さんは同じ町内に住んでいるので、スーパーでたまに見かける。
小さな子どもを連れて買い物をしている。
実にいいお父さんで、買い物も慣れている。どこから見ても立派な主夫だ。

田辺さんの奥さんは、どんな人だろう。
きっと洗練されたスーツを着こなす知的な美人だろう。
それに比べて私は、もう3年くらい服を買っていない。
暴力亭主と別れてから、派遣の仕事と子育てで毎日クタクタだ。
田辺さんが私の夫だったら、私はもっと輝ける。
シャンパングレーのスーツに8センチのピンヒールを履いて、「晩ご飯何にしよう」とか、「洗濯物乾いたかな」なんて考えることもなくバリバリ働く。
田辺さんの奥さんのように、デキる女になれるはずだ。
会ったこともないその人に、私は激しく嫉妬した。

月曜の朝、息子を保育園に送って駅に向かっていると、田辺さんに会った。
田辺さんは私に気づき「今から出勤?」と声をかけてくれた。
「はい。田辺さんは、お出掛けですか?」
「忘れ物を届けに駅までね。大事な書類を忘れたって電話があってさ。しっかりしているようで抜けてるんだよな」
田辺さんは愛おしそうに、手に持った封筒をかざした。
「忘れ物を届けるなんて、優しいんですね」
「外で戦っているからね。家では思い切り気を抜いてほしいんだよ」
ああ、なんていい夫だろう。奥さんが羨ましい。
私は結婚していた時も今も、まるで余裕がない。
田辺さんが夫だったら。ああ、またそんな夢みたいなことを思ってしまう。
斜め前を歩く田辺さんの寝癖頭を優しく撫でたい衝動を抑えて、歩幅を合わせる。
駅に着いたら、奥さんに会える。
田辺さんが選んだ人が、どうか嫌な女じゃありませんように。
どうか私をガッカリさせないで。

駅に着くと、田辺さんは大きく手を振った。
「大事なものを忘れて。本当に君は僕がいないとダメだなあ」
田辺さんが封筒を差し出した人は、センスのいいスーツを着た中年男だった。
田辺さんは、「行ってらっしゃい」と彼のネクタイを直した。
えええ~、そういうこと? うそでしょ。子供いたじゃん。
心の声が、思わず口から出てしまったようで、田辺さんが振り返った。
「彼の連れ子なんだ。今では僕たち二人の子供だけどね」

彼を見送る田辺さんは、すごく可愛い奥さんで、きっとすごく優しいお母さんだ。
私は田辺さんに駆け寄って、手早く寝癖を直してあげた。
「田辺さん、今度スーパーの特売いっしょに行きませんか」
「えっ、いいけど」
「私たち、いいママ友になれそうですね」
「ママ友? ああ、いいね、ママ友」
田辺さんは、嬉しそうに笑った。

田辺さんに手を振って改札を抜けた。
ウンザリするような満員電車の中、私は少しだけ笑顔になった。

***
久々の更新になってしまいました。
ネット環境を変えたら繋がりがイマイチで、なんかストレス。
頑張れWi-Fi!!

nice!(10)  コメント(6)