MJに5時 [公募]
懐かしい駅で電車を降りた。この小さな駅には思い出がたくさん詰まっている。
書置きを残して家を出てきた。
二人の子供はとうに巣立ち、定年を迎えた夫との暮らしに疲れていた。
趣味もない夫は、急にヒマになったものだから余計なことばかりする。
家事のペースが乱れて困る。束縛されるわけではないけれど、思うように外出できない。
贅沢な悩みなのかもしれないけれど、ちょっと限界に来ていた。
ホームには、セーラー服の高校生が二人、スマホを見ながら電車を待っている。
もう四十年も前だけど、私もこの子たちと同じ女子高生だった。
あの頃と変わっていない制服に、懐かしさが二倍になった。
高校の三年間、この駅で降りて女子高へ通った。
学校への坂道は、毎朝同じ制服の少女たちで埋め尽くされた。
すみれ色の制服だから、通称「すみれ坂」なんて呼ばれていた。
駅はすっかり新しくなって、コーヒースタンドとコンビニが併設され、私にとって最大の必需品だった伝言板が消えていた。
伝言板を使う人など十年以上前から皆無だ。
だけど携帯電話もポケベルもない時代、私たちにとって伝言板はとても大切な連絡手段だった。
あの頃私は、秘密の恋をしていた。友達にも、もちろん親にも言えない秘密の恋だ。
恋の相手は国語の先生だった。
私が書いた詩を先生が褒めてくれて、嬉しくて詩を書いては先生に見せに行った。
そのうちに、どうしようもなく好きになって、先生も同じ気持ちだと知って、私たちは恋人同士になった。
連絡はいつも伝言板を使った。
二人だけにわかる暗号で、店や場所を示し、そこで落ち合う。
大概は隣の駅か、二つ先の駅にある店を使った。
デパートのトイレで着替えて、下手な化粧をした。
先生とは、きっちり一時間お喋りをして、遅くならないうちに家に帰った。
教師という立場上、先生もたくさんの我慢をしていたのだと思う。
別れ際、先生は決まって同じことを言った。
「早く卒業してくれよ」
そして繋いだ手を放して、「おやすみ」と手を振る。
最高に切なくて、最高に幸せだった。
坂を上がると息が切れた。四十年のブランクは大きい。
テスト期間中で下校時間が早いのか、高校はひっそりしていた。
数年前に中高一貫校になり、校舎はモダンに建て替えられている。
ぐるりと一周しても、昔の面影は欠片もない。
先生との思い出が、破片でも残っていたら泣くかもしれないと思っていたのに、全然なかった。
木枯らしに背中を押されて坂を下り、駅で次の電車を待った。
誰もいない待合室でふと横を見ると、日帰り旅行のパンフレットの後ろに、伝言板がぼんやり見えた。ひっそりと、私のために残されたような古びた伝言板だ。
近づいてみると、一行だけ伝言が書いてある。
『MJに5時 アキ』
ドキリとした。アキというのは先生の名前だ。
アキラだから「アキ」、私の名前は冬子だから「フユ」。
それが二人だけに解る秘密の名前だった。
MJは、二つ先の駅にある喫茶店だ。マイケルジャクソンばかり流れていたから、「MJ」と呼んでいた。先生と二人でよく行った想い出の店だ。
行ってみたいと呟くと、伝言板は煙のように消えてしまった。
二つ目の駅で降りて線路沿いを歩いて五分。
レンガ造りの小さな店は、今も変わらずそこにあった。店の名前も変わっていない。
重い扉を開くと、聞こえてきたのはマイケルじゃなくてテイラースイフト。
マスターもすっかり代替わりしている。それでもコーヒーの香りは昔のままだ。
奥の席に、見覚えのあるセーターを見つけた。いつも私と先生が座っていた席だ。
ゆっくり近づいて、大きな背中に声をかけた。
「先生」
ゆっくり振り向いたその人は、照れたように頭をかいた。
「今更先生なんて、懐かしい呼び方するなよ」
テーブルには、マンデリンと文庫本。
お腹が出て、すっかりおじさんになった先生は、私の夫だ。卒業して二年後に結婚した。
「あなた、どうしてここに?」
「君が書置きを残したからだろう」
夫がポケットから取り出したメモには、『MJに5時 フユ』と書いてあった。
不思議だ。そんなメモを残した覚えはない。だけど久しぶりに、大きな背中にときめいた。
「ねえ、今日何食べたい?」
「何でもいいよ。一緒にカレーでも作る?」
「余計に時間がかかるからいいわ」
一緒にいるだけで楽しかったあの頃を、長い間忘れていた。
すっかり日が暮れた駅で、二人並んで電車を待った。
同じ家に帰る幸せが、胸に染みる夜だった。
******
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「駅」でした。
いくつものドラマが書けそうなものですが、それが却って難しい。
最優秀作品は、アイデアはすごいなと思いましたが、ごめんなさい、ラストがよくわからなかった。5枚に収めるには難しい話だったのかも。
書置きを残して家を出てきた。
二人の子供はとうに巣立ち、定年を迎えた夫との暮らしに疲れていた。
趣味もない夫は、急にヒマになったものだから余計なことばかりする。
家事のペースが乱れて困る。束縛されるわけではないけれど、思うように外出できない。
贅沢な悩みなのかもしれないけれど、ちょっと限界に来ていた。
ホームには、セーラー服の高校生が二人、スマホを見ながら電車を待っている。
もう四十年も前だけど、私もこの子たちと同じ女子高生だった。
あの頃と変わっていない制服に、懐かしさが二倍になった。
高校の三年間、この駅で降りて女子高へ通った。
学校への坂道は、毎朝同じ制服の少女たちで埋め尽くされた。
すみれ色の制服だから、通称「すみれ坂」なんて呼ばれていた。
駅はすっかり新しくなって、コーヒースタンドとコンビニが併設され、私にとって最大の必需品だった伝言板が消えていた。
伝言板を使う人など十年以上前から皆無だ。
だけど携帯電話もポケベルもない時代、私たちにとって伝言板はとても大切な連絡手段だった。
あの頃私は、秘密の恋をしていた。友達にも、もちろん親にも言えない秘密の恋だ。
恋の相手は国語の先生だった。
私が書いた詩を先生が褒めてくれて、嬉しくて詩を書いては先生に見せに行った。
そのうちに、どうしようもなく好きになって、先生も同じ気持ちだと知って、私たちは恋人同士になった。
連絡はいつも伝言板を使った。
二人だけにわかる暗号で、店や場所を示し、そこで落ち合う。
大概は隣の駅か、二つ先の駅にある店を使った。
デパートのトイレで着替えて、下手な化粧をした。
先生とは、きっちり一時間お喋りをして、遅くならないうちに家に帰った。
教師という立場上、先生もたくさんの我慢をしていたのだと思う。
別れ際、先生は決まって同じことを言った。
「早く卒業してくれよ」
そして繋いだ手を放して、「おやすみ」と手を振る。
最高に切なくて、最高に幸せだった。
坂を上がると息が切れた。四十年のブランクは大きい。
テスト期間中で下校時間が早いのか、高校はひっそりしていた。
数年前に中高一貫校になり、校舎はモダンに建て替えられている。
ぐるりと一周しても、昔の面影は欠片もない。
先生との思い出が、破片でも残っていたら泣くかもしれないと思っていたのに、全然なかった。
木枯らしに背中を押されて坂を下り、駅で次の電車を待った。
誰もいない待合室でふと横を見ると、日帰り旅行のパンフレットの後ろに、伝言板がぼんやり見えた。ひっそりと、私のために残されたような古びた伝言板だ。
近づいてみると、一行だけ伝言が書いてある。
『MJに5時 アキ』
ドキリとした。アキというのは先生の名前だ。
アキラだから「アキ」、私の名前は冬子だから「フユ」。
それが二人だけに解る秘密の名前だった。
MJは、二つ先の駅にある喫茶店だ。マイケルジャクソンばかり流れていたから、「MJ」と呼んでいた。先生と二人でよく行った想い出の店だ。
行ってみたいと呟くと、伝言板は煙のように消えてしまった。
二つ目の駅で降りて線路沿いを歩いて五分。
レンガ造りの小さな店は、今も変わらずそこにあった。店の名前も変わっていない。
重い扉を開くと、聞こえてきたのはマイケルじゃなくてテイラースイフト。
マスターもすっかり代替わりしている。それでもコーヒーの香りは昔のままだ。
奥の席に、見覚えのあるセーターを見つけた。いつも私と先生が座っていた席だ。
ゆっくり近づいて、大きな背中に声をかけた。
「先生」
ゆっくり振り向いたその人は、照れたように頭をかいた。
「今更先生なんて、懐かしい呼び方するなよ」
テーブルには、マンデリンと文庫本。
お腹が出て、すっかりおじさんになった先生は、私の夫だ。卒業して二年後に結婚した。
「あなた、どうしてここに?」
「君が書置きを残したからだろう」
夫がポケットから取り出したメモには、『MJに5時 フユ』と書いてあった。
不思議だ。そんなメモを残した覚えはない。だけど久しぶりに、大きな背中にときめいた。
「ねえ、今日何食べたい?」
「何でもいいよ。一緒にカレーでも作る?」
「余計に時間がかかるからいいわ」
一緒にいるだけで楽しかったあの頃を、長い間忘れていた。
すっかり日が暮れた駅で、二人並んで電車を待った。
同じ家に帰る幸せが、胸に染みる夜だった。
******
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「駅」でした。
いくつものドラマが書けそうなものですが、それが却って難しい。
最優秀作品は、アイデアはすごいなと思いましたが、ごめんなさい、ラストがよくわからなかった。5枚に収めるには難しい話だったのかも。
壁の音 [公募]
上京して初めての一人暮らしは、セキュリティ万全のマンションとは程遠い、かなりレトロなアパートだった。
引っ越しが終わって両親が帰ると、寂しさと心細さと開放感が入り混じり、なかなか眠ることが出来なかった。
深夜0時を回るころ、トントンと壁を叩く音がした。
隣の部屋の住人が、壁を叩いているようだ。
こんな夜中に、なんて迷惑な人だろう。都会の人は常識がないのか。
これだから安アパートは。憤慨しながら布団を被っても、音は鳴りやまない。
聞いているうちに、ふと気づいた。隣の住人は、やみくもに壁を叩いているのではない。
リズムがある。モールス信号のように、意味を持っているのではないかと思えてきた。
トントントン(こんばんは)。トトトン(げんき?)。トトトトトン(あいしてる)。
えっ? いやだ。怖い。キモすぎる。
隣がどんな住人かもわからないのに、勝手な想像で盛り上がり、寝不足のまま朝を迎えた。
もう出掛けたのか、隣の部屋は静かだった。
数軒先の大家さんを訪ね、昨夜のことを話した。
「それは気のせいでしょう。あんたのお隣さんは、今どき珍しく礼儀正しい大学生なのよ。昼間働いて、夜学校に行っている立派な学生さんよ。しかもイケメン。壁を叩くなんて、そんなことしないわよ」
隣の大学生に絶大な信頼を寄せている大家さんに、これ以上言っても無駄だと知った。
やっぱりセキュリティ万全のマンションがよかった。
せめて彼がどれだけイケメンなのか確かめたかったが、早朝に出かけて夜半に帰る苦学生の顔を、拝むことは出来なかった。
その夜も、壁は叩かれた。
トントントン(こんばんは)。トトトン(さみしい)。トントトトン(いま、あいたい)。トトトト(すきだよ)。
いやだ、なんて情熱的。
もしかしたら隣の学生は、前にこの部屋に住んでいた人と恋人同士だったのではないか。
こうして毎晩、壁を叩き合って秘密の会話をしていたのかも。
そう思ったら、どことなく寂しい響きに聞こえる。
彼は今も、彼女を想い続けているのだろう。私もそっと壁を叩いた。
トトトト(すきだよ)の後に、トトトト(わたしも)と。
そんなことが数日続いた。
慣れない一人暮らしも、思ったよりも大変な大学生活も、壁越しの不思議な会話に救われた。
そして初めての日曜日、隣の部屋から生活音が聞こえてきた。
隣の大学生、今日は家にいるのか。
私は実家から送られてきた野菜を持って部屋を訪ねた。初めてのご対面だ。
「はい」と出てきた彼は、そこまでイケメンとは思えない、寝ぐせ頭の男だった。
「ご挨拶が遅れました。隣に引っ越して来ました。これ、実家から送ってきた野菜です」
男は「どうも」と無造作に野菜を受け取ると、私の顔をじっと見て言った。
「君さ、夜中に壁叩くのやめてくれない?」
「はあ? 叩いているのはそっちでしょ」
「なんで俺がそんな無駄なことするんだよ。一分だって長く寝たいのに」
「あなたが叩くから私も叩いたの。最初に叩いたの、そっちだからね」
話は平行線だった。「何だ、こいつ。どこが好青年だ」と思いながら、取りあえず引き下がった。しかしその夜、またしても壁を叩く音がした。
トトトトン(ごめんよ)。
謝っているの? それならば、トトト(いいよ)。
これで仲直り……と思ったら、隣から声がした。
「ほら、今叩いただろ」
「そっちが叩くから答えたのよ」
「叩いてねえし。いい加減にしろよ」
「それはこっちのセリフだわ」
その時、「ドーン」という地響きのような音が壁の中から聞こえた。「ドーン、ドーン」と不気味な音が何度も何度も鳴り響く。
「ねえ、これ、何?」
「わからない。何なんだ、これ」
「ねえ、怖いんだけど、ちょっとそっちに行ってもいい?」
「いいけど、一分待って。片付けるから」
私は一分後、震えながら彼の部屋に行った。
不気味な音は暫く鳴り続け、余韻も残さずピタリと止んだ。
私たちは、いつの間にか手を握り合っていた。彼が、少しイケメンに見えてきた。
吊り橋効果というやつか。その後私たちは急速に仲良くなり、つき合い始めた。
夏が来て、実家から送ってきたメロンを大家さんに届けに行った。
「あら美味しそう。ありがとう。そういえばあんた、隣の大学生とつき合ってるんだって。いいねえ、若い子は。でも不思議ねえ。昔から、あのアパートの住人同士でカップルになる人、ものすごく多いのよ。縁結びの神様でもいるのかしらね」
そういえば、彼とつき合い始めてから壁の音は一切しなくなった。そうか、そういうことなのか。部屋に帰って、壁に耳を当ててみた。彼と私、ふたり分の温もりが心地いい。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「壁」でした。
偶然にも、時点の佳作作品と同じタイトルでした。なんとアイデアも同じでした。
意外と誰でも思いつくことだったんだな。
最優秀作品は、ジーンとくる話でした。5枚で感動させるって、すごいな。
今月の課題は「名前」です。
思いついたら出してみるけれど、またギリギリになりそうです。
引っ越しが終わって両親が帰ると、寂しさと心細さと開放感が入り混じり、なかなか眠ることが出来なかった。
深夜0時を回るころ、トントンと壁を叩く音がした。
隣の部屋の住人が、壁を叩いているようだ。
こんな夜中に、なんて迷惑な人だろう。都会の人は常識がないのか。
これだから安アパートは。憤慨しながら布団を被っても、音は鳴りやまない。
聞いているうちに、ふと気づいた。隣の住人は、やみくもに壁を叩いているのではない。
リズムがある。モールス信号のように、意味を持っているのではないかと思えてきた。
トントントン(こんばんは)。トトトン(げんき?)。トトトトトン(あいしてる)。
えっ? いやだ。怖い。キモすぎる。
隣がどんな住人かもわからないのに、勝手な想像で盛り上がり、寝不足のまま朝を迎えた。
もう出掛けたのか、隣の部屋は静かだった。
数軒先の大家さんを訪ね、昨夜のことを話した。
「それは気のせいでしょう。あんたのお隣さんは、今どき珍しく礼儀正しい大学生なのよ。昼間働いて、夜学校に行っている立派な学生さんよ。しかもイケメン。壁を叩くなんて、そんなことしないわよ」
隣の大学生に絶大な信頼を寄せている大家さんに、これ以上言っても無駄だと知った。
やっぱりセキュリティ万全のマンションがよかった。
せめて彼がどれだけイケメンなのか確かめたかったが、早朝に出かけて夜半に帰る苦学生の顔を、拝むことは出来なかった。
その夜も、壁は叩かれた。
トントントン(こんばんは)。トトトン(さみしい)。トントトトン(いま、あいたい)。トトトト(すきだよ)。
いやだ、なんて情熱的。
もしかしたら隣の学生は、前にこの部屋に住んでいた人と恋人同士だったのではないか。
こうして毎晩、壁を叩き合って秘密の会話をしていたのかも。
そう思ったら、どことなく寂しい響きに聞こえる。
彼は今も、彼女を想い続けているのだろう。私もそっと壁を叩いた。
トトトト(すきだよ)の後に、トトトト(わたしも)と。
そんなことが数日続いた。
慣れない一人暮らしも、思ったよりも大変な大学生活も、壁越しの不思議な会話に救われた。
そして初めての日曜日、隣の部屋から生活音が聞こえてきた。
隣の大学生、今日は家にいるのか。
私は実家から送られてきた野菜を持って部屋を訪ねた。初めてのご対面だ。
「はい」と出てきた彼は、そこまでイケメンとは思えない、寝ぐせ頭の男だった。
「ご挨拶が遅れました。隣に引っ越して来ました。これ、実家から送ってきた野菜です」
男は「どうも」と無造作に野菜を受け取ると、私の顔をじっと見て言った。
「君さ、夜中に壁叩くのやめてくれない?」
「はあ? 叩いているのはそっちでしょ」
「なんで俺がそんな無駄なことするんだよ。一分だって長く寝たいのに」
「あなたが叩くから私も叩いたの。最初に叩いたの、そっちだからね」
話は平行線だった。「何だ、こいつ。どこが好青年だ」と思いながら、取りあえず引き下がった。しかしその夜、またしても壁を叩く音がした。
トトトトン(ごめんよ)。
謝っているの? それならば、トトト(いいよ)。
これで仲直り……と思ったら、隣から声がした。
「ほら、今叩いただろ」
「そっちが叩くから答えたのよ」
「叩いてねえし。いい加減にしろよ」
「それはこっちのセリフだわ」
その時、「ドーン」という地響きのような音が壁の中から聞こえた。「ドーン、ドーン」と不気味な音が何度も何度も鳴り響く。
「ねえ、これ、何?」
「わからない。何なんだ、これ」
「ねえ、怖いんだけど、ちょっとそっちに行ってもいい?」
「いいけど、一分待って。片付けるから」
私は一分後、震えながら彼の部屋に行った。
不気味な音は暫く鳴り続け、余韻も残さずピタリと止んだ。
私たちは、いつの間にか手を握り合っていた。彼が、少しイケメンに見えてきた。
吊り橋効果というやつか。その後私たちは急速に仲良くなり、つき合い始めた。
夏が来て、実家から送ってきたメロンを大家さんに届けに行った。
「あら美味しそう。ありがとう。そういえばあんた、隣の大学生とつき合ってるんだって。いいねえ、若い子は。でも不思議ねえ。昔から、あのアパートの住人同士でカップルになる人、ものすごく多いのよ。縁結びの神様でもいるのかしらね」
そういえば、彼とつき合い始めてから壁の音は一切しなくなった。そうか、そういうことなのか。部屋に帰って、壁に耳を当ててみた。彼と私、ふたり分の温もりが心地いい。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「壁」でした。
偶然にも、時点の佳作作品と同じタイトルでした。なんとアイデアも同じでした。
意外と誰でも思いつくことだったんだな。
最優秀作品は、ジーンとくる話でした。5枚で感動させるって、すごいな。
今月の課題は「名前」です。
思いついたら出してみるけれど、またギリギリになりそうです。
深夜のドライブ [公募]
あっ、泣いてる。悠馬の夜泣きが始まった。
瞼をはがして重い体を起こしながら、時計を見ると深夜一時。決まってこの時間だ。
「またかよ」という夫の声を背中越しに聞いて起き上がる。
私だって言いたい。「またなの?」と言って布団をかぶりたい。
まだ一歳になったばかりの小さな生命体は、何が不満で泣いているのかさっぱりわからない。
抱き上げると、背中を逸らして激しく泣く。
すっかり重くなった子どもの背中をポンポンと叩きながら溜息混じりに部屋を出る。
十二月の真夜中、眠くて寒くて、泣きたいのはこっちの方だった。
その夜私は、完全装備で寝ていた。
厚手のスエット上下に靴下、すぐに羽織れるように、フリースのジャケットは布団の上に置いてある。
そんな格好で寝ているのは、そのまま真冬の外に出るための準備だ。
先輩ママから聞いた「夜泣きしてぐずった時は、車に乗せると泣き止むよ」という話を実践するためだ。
何にせよ、新しいことをするときは少しワクワクするもので、目がさえて眠れない布団の中で悠馬が泣き出すのを待っていた。
深夜一時、そろそろだ。あっ、泣き出した。
私はすかさず起きて悠馬を抱くと、夫を振り返ることもなくそそくさと部屋を出た。
ガレージに止めてある軽自動車に、押し込むように悠馬を乗せた。
チャイルドシートにくくり付けるまではずいぶんと暴れたけれど、車を発進させたら何事もなかったように泣き止んだ。
まるで何かのスイッチが切り替わったようだ。
それどころか、新しいおもちゃを見つけたようにニコニコしている。
「すごい。ゆうちゃん、ご機嫌になったね」
先輩ママの話は本当だった。私は嬉しくなって、夜の街を走り続けた。
真夜中の道路、前にも後ろにも車はない。
私たちのためだけに信号が点り、私たちのためだけに中央分離帯がある。
気持ちいい。このまま海にでも行ってしまおうか。そんな気分だ。
これは結構なストレス発散になりそうだ。
悠馬は、他の子よりも成長が遅い。
「あの子はもう歩いてる」「あの子はずいぶん喋るらしい」「あの子は誰にでも懐いて可愛い」「それに比べてゆうちゃんは」と、母や姑がため息をつく。
まだ一年しか生きていないのに、他の子と比べられるなんて可哀想。
そう思いながら、自分が責められているような気になる。
優馬がお腹にいたころから、間違ったことは何もしていない。
正しい育児だけをしてきたはずだ。だけどちっとも思い通りにいかない。
優馬はどこに行っても泣いてばかりだ。人見知りも激しい。
何でもイヤイヤ、物を投げて奇声を上げる。一歳健診も泣いて大変だった。
大人しく健診を受けている子が羨ましい。
寝ると心底ホッとする。そんなところに始まったのがこの夜泣きだった。
真っ直ぐな道が続いていた。
昼間は人で溢れている大きなビルもマンションも、息をしていないように静かだ。
コンビニやファミレスの灯りも、心なしか控えめに見える。
夜を支配したような気分だ。
「気持ちいい!」
思わず叫んだら、優馬が「キャッ、キャッ」と奇声を上げた。
きっと私が楽しいと、優馬も楽しいのだ。
「ゆうちゃん、明日もドライブしようか」
通じたのかどうか分からないけれど、優馬が「あーい」と返事をした。
そうか。こんな風に余裕をもって向き合えばいいのか。
何だか私、いつもいつも狼狽えてばかりだった。
夜の街をぐるりと回って帰るころには、悠馬はすっかり眠っていた。
天使みたいな可愛い顔で、ぽかんと口を開けている。
そうっと抱き上げて車のドアを閉めたら、慌てた様子で夫が出てきた。
「どうしたの、パパ」
「どうしたのじゃないだろう。起きたら君と悠馬がいないからビックリした。おまけに車もないし、マジ焦った」
「もしかして、育児に全く参加しないパパに愛想を尽かして出て行ったと思った?」
私はくすくすと笑いながら、ぐっすり眠っている悠馬をベッドに寝かせた。
「もう起きないと思うわ。車の中でずいぶんはしゃいでいたから」
私は、深夜のドライブが如何に楽しかったかを夫に聞かせた。
小さくて狭い部屋でジタバタしていた私の世界が、少しだけ変わったことを話した。
「明日も行くわよ。この際だから、悠馬の夜泣きを楽しんじゃおうと思うの」
朝までぐっすり眠れそう。
電気を消して布団にもぐり込むと、夫が少し拗ねたようにつぶやいた。
「明日は、俺も連れてって」
あらやだ。息子に嫉妬してるの?
笑いをこらえながら、鼻先まで布団を引き上げた。
*************
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「深夜」でした。
このところなかなか書けなくて、先月の課題「駅」も、締め切り日に書いてそのまま送りました。
やっぱり年末は忙しないですね。
今月の課題は「壺」って。。。
またギリギリになりそうです。
瞼をはがして重い体を起こしながら、時計を見ると深夜一時。決まってこの時間だ。
「またかよ」という夫の声を背中越しに聞いて起き上がる。
私だって言いたい。「またなの?」と言って布団をかぶりたい。
まだ一歳になったばかりの小さな生命体は、何が不満で泣いているのかさっぱりわからない。
抱き上げると、背中を逸らして激しく泣く。
すっかり重くなった子どもの背中をポンポンと叩きながら溜息混じりに部屋を出る。
十二月の真夜中、眠くて寒くて、泣きたいのはこっちの方だった。
その夜私は、完全装備で寝ていた。
厚手のスエット上下に靴下、すぐに羽織れるように、フリースのジャケットは布団の上に置いてある。
そんな格好で寝ているのは、そのまま真冬の外に出るための準備だ。
先輩ママから聞いた「夜泣きしてぐずった時は、車に乗せると泣き止むよ」という話を実践するためだ。
何にせよ、新しいことをするときは少しワクワクするもので、目がさえて眠れない布団の中で悠馬が泣き出すのを待っていた。
深夜一時、そろそろだ。あっ、泣き出した。
私はすかさず起きて悠馬を抱くと、夫を振り返ることもなくそそくさと部屋を出た。
ガレージに止めてある軽自動車に、押し込むように悠馬を乗せた。
チャイルドシートにくくり付けるまではずいぶんと暴れたけれど、車を発進させたら何事もなかったように泣き止んだ。
まるで何かのスイッチが切り替わったようだ。
それどころか、新しいおもちゃを見つけたようにニコニコしている。
「すごい。ゆうちゃん、ご機嫌になったね」
先輩ママの話は本当だった。私は嬉しくなって、夜の街を走り続けた。
真夜中の道路、前にも後ろにも車はない。
私たちのためだけに信号が点り、私たちのためだけに中央分離帯がある。
気持ちいい。このまま海にでも行ってしまおうか。そんな気分だ。
これは結構なストレス発散になりそうだ。
悠馬は、他の子よりも成長が遅い。
「あの子はもう歩いてる」「あの子はずいぶん喋るらしい」「あの子は誰にでも懐いて可愛い」「それに比べてゆうちゃんは」と、母や姑がため息をつく。
まだ一年しか生きていないのに、他の子と比べられるなんて可哀想。
そう思いながら、自分が責められているような気になる。
優馬がお腹にいたころから、間違ったことは何もしていない。
正しい育児だけをしてきたはずだ。だけどちっとも思い通りにいかない。
優馬はどこに行っても泣いてばかりだ。人見知りも激しい。
何でもイヤイヤ、物を投げて奇声を上げる。一歳健診も泣いて大変だった。
大人しく健診を受けている子が羨ましい。
寝ると心底ホッとする。そんなところに始まったのがこの夜泣きだった。
真っ直ぐな道が続いていた。
昼間は人で溢れている大きなビルもマンションも、息をしていないように静かだ。
コンビニやファミレスの灯りも、心なしか控えめに見える。
夜を支配したような気分だ。
「気持ちいい!」
思わず叫んだら、優馬が「キャッ、キャッ」と奇声を上げた。
きっと私が楽しいと、優馬も楽しいのだ。
「ゆうちゃん、明日もドライブしようか」
通じたのかどうか分からないけれど、優馬が「あーい」と返事をした。
そうか。こんな風に余裕をもって向き合えばいいのか。
何だか私、いつもいつも狼狽えてばかりだった。
夜の街をぐるりと回って帰るころには、悠馬はすっかり眠っていた。
天使みたいな可愛い顔で、ぽかんと口を開けている。
そうっと抱き上げて車のドアを閉めたら、慌てた様子で夫が出てきた。
「どうしたの、パパ」
「どうしたのじゃないだろう。起きたら君と悠馬がいないからビックリした。おまけに車もないし、マジ焦った」
「もしかして、育児に全く参加しないパパに愛想を尽かして出て行ったと思った?」
私はくすくすと笑いながら、ぐっすり眠っている悠馬をベッドに寝かせた。
「もう起きないと思うわ。車の中でずいぶんはしゃいでいたから」
私は、深夜のドライブが如何に楽しかったかを夫に聞かせた。
小さくて狭い部屋でジタバタしていた私の世界が、少しだけ変わったことを話した。
「明日も行くわよ。この際だから、悠馬の夜泣きを楽しんじゃおうと思うの」
朝までぐっすり眠れそう。
電気を消して布団にもぐり込むと、夫が少し拗ねたようにつぶやいた。
「明日は、俺も連れてって」
あらやだ。息子に嫉妬してるの?
笑いをこらえながら、鼻先まで布団を引き上げた。
*************
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「深夜」でした。
このところなかなか書けなくて、先月の課題「駅」も、締め切り日に書いてそのまま送りました。
やっぱり年末は忙しないですね。
今月の課題は「壺」って。。。
またギリギリになりそうです。
庭石の記憶 [公募]
里子は、縁側に腰かけて石を見ている。庭の真ん中に置かれた大きな石だ。
青みがかった黒に近い灰色で、季節の草花を映し出して艶やかに光っている。
里子は美しい石を眺めながら、「三十年か」とつぶやいた。
山奥で育った里子は、高校を卒業して家業の酪農を手伝っていた。
遠い親戚からの縁談話が纏まり、ふもとの町へ嫁いだのは三十五年前のことだ。
姑小姑だけでなく、大姑までいる大所帯で、里子は息をつく間もなく働いた。
山しか知らない娘だったから、姑小姑からずいぶん厳しく躾けられた。
躾と言えば聞こえはいいが、里子からすればそれは立派な嫁いびりだった。
「あんたは何をやっても雑ね。山育ちってっていうのは、人種が違うのかしらね」
「お母さん、何を言っても無駄よ。この子、山ザルだもん」
義母は歩き方や笑い方にさえも文句をつけ、義姉は、ことあるごとに里子を田舎者扱いして馬鹿にした。おまけに大姑は、足が不自由だが口は達者で厳しかった。
「呼んだらさっさと来い。立派な足が二本もあるのに、おまえの足は飾り物か」
里子にだけでなく、義母に対しても厳しく、大姑に嫌味を言われると義母は里子に当たる。いつもよりずっと厳しく。
夫は優しくねぎらってくれたが、姑小姑に対しては何も言えない。
義父もまた同じだった。
子供がなかなか出来ないことも、嫁いびりを加速させる理由になった。
それが一番つらかった。
石屋が来たのは、里子が嫁いで五年目のことだった。
石屋とは、山で採掘した見栄えのいい石を磨いて町に売りに来る業者のことだ。
その日は、ようやく縁談が纏まった義姉の結婚式だった。
しかし里子は出席せずに留守番だった。
すっかりボケてしまった大姑の面倒を診るために残った。
もっとも上品ぶった親戚たちに会うよりもずっとマシだった。
石屋は、庭先で里子に声をかけた。
「奥さん、いい石がありますよ。せっかく広い庭なのに殺風景で勿体ないですよ。ね、奥さん、見るだけでも見てくださいよ」
石屋が勧めた石は、黒に近い灰色で、いくらか青い色がちりばめられていた。
美しい石だ。しかもどこか懐かしい。
「きれいでしょう。あまり有名じゃないけどね、あの山で採れた石なんですよ」
石屋が指さした山は、里子が生まれ育った山だった。
石の形も、どことなく山と似ている。「欲しい」と里子は思った。
だけどこれだけ大きかったらさぞかし高価だろう。
里子には、高額なものを買う権限などなかった。
「ちょっと待ってて」と石屋を引き止め、里子は大姑の部屋に向かった。
大姑はこの頃、里子を実の娘だと思い込んでいる。
それを利用して、石を買わせようと思いついた。
「おや、正子じゃないか。何か用?」
やはりこの日も里子を、とうに嫁に行った伯母の正子だと思い込んでいる。
「お母さん、今ね、石を売りに来たの。素敵な石よ。買ってもいいかしら」
「石って、エメラルド? ダイヤ?」
「もっと大きくてきれいな石よ。いいでしょう。私すっかり気に入ったの」
娘には甘い大姑は、「仕方ないね。お金はタンスの引き出しにあるから。お父さんには内緒だよ」と笑った。
タンスに大金があることを、里子はとっくに知っていた。
こうして里子は石を買い、庭の真ん中に置いてもらった。
台所からも居間からも寝室からも見えるように置いた。
五年も耐えたんだ。このくらいいいだろうと思った。
帰ってきた姑は、石を見て憤慨した。舅と夫も唖然としている。
「すみません、お義母さん、おばあさまがどうしても買うと仰って。私は止めたんですよ。でも、あの性格ですから……」
全てをボケた大姑のせいにした。
それでも全身を震わせて怒った姑を、夫がなだめた。
「まあまあ、なかなかいい石じゃないか。庭が明るくなったよ。ねえ父さん」
程なく里子が妊娠した。石のご利益だと夫が言い、姑も渋々それを認めた。
石を置いてから、穏やかな日が続いた。
大姑が亡くなり、姑は少しだけ優しくなった。すべては石のおかげだ。
この石は故郷だ。里子は、ずっとそう思って生きてきた。
「三十年間ありがとう」
「本当にいいのか? 大事な石をどかしても」
夫が縁側から声をかけた。もうすぐ結婚するひとり息子のために家を建て替える。
石をどかして二世帯住宅を建てるのだ。
「いいのよ。もう石は必要ないわ」
義父母を看取って自由になった里子は、息子夫婦との暮らしを楽しみにしている。
「あの嫁、気が利かなそうだから、しっかり躾けてあげないとね」
そう言って笑う里子の横顔を、石が映し出した。
*****
公募ガイドTO-BE小説工房の落選作です。
課題は「石」。いろんなエピソードがありそうで、選ぶ方も大変だったかもしれません。
書き終わったときは「すごい、面白い。イケる!」と思ったんだけど、読み返すとイマイチだったかな。
青みがかった黒に近い灰色で、季節の草花を映し出して艶やかに光っている。
里子は美しい石を眺めながら、「三十年か」とつぶやいた。
山奥で育った里子は、高校を卒業して家業の酪農を手伝っていた。
遠い親戚からの縁談話が纏まり、ふもとの町へ嫁いだのは三十五年前のことだ。
姑小姑だけでなく、大姑までいる大所帯で、里子は息をつく間もなく働いた。
山しか知らない娘だったから、姑小姑からずいぶん厳しく躾けられた。
躾と言えば聞こえはいいが、里子からすればそれは立派な嫁いびりだった。
「あんたは何をやっても雑ね。山育ちってっていうのは、人種が違うのかしらね」
「お母さん、何を言っても無駄よ。この子、山ザルだもん」
義母は歩き方や笑い方にさえも文句をつけ、義姉は、ことあるごとに里子を田舎者扱いして馬鹿にした。おまけに大姑は、足が不自由だが口は達者で厳しかった。
「呼んだらさっさと来い。立派な足が二本もあるのに、おまえの足は飾り物か」
里子にだけでなく、義母に対しても厳しく、大姑に嫌味を言われると義母は里子に当たる。いつもよりずっと厳しく。
夫は優しくねぎらってくれたが、姑小姑に対しては何も言えない。
義父もまた同じだった。
子供がなかなか出来ないことも、嫁いびりを加速させる理由になった。
それが一番つらかった。
石屋が来たのは、里子が嫁いで五年目のことだった。
石屋とは、山で採掘した見栄えのいい石を磨いて町に売りに来る業者のことだ。
その日は、ようやく縁談が纏まった義姉の結婚式だった。
しかし里子は出席せずに留守番だった。
すっかりボケてしまった大姑の面倒を診るために残った。
もっとも上品ぶった親戚たちに会うよりもずっとマシだった。
石屋は、庭先で里子に声をかけた。
「奥さん、いい石がありますよ。せっかく広い庭なのに殺風景で勿体ないですよ。ね、奥さん、見るだけでも見てくださいよ」
石屋が勧めた石は、黒に近い灰色で、いくらか青い色がちりばめられていた。
美しい石だ。しかもどこか懐かしい。
「きれいでしょう。あまり有名じゃないけどね、あの山で採れた石なんですよ」
石屋が指さした山は、里子が生まれ育った山だった。
石の形も、どことなく山と似ている。「欲しい」と里子は思った。
だけどこれだけ大きかったらさぞかし高価だろう。
里子には、高額なものを買う権限などなかった。
「ちょっと待ってて」と石屋を引き止め、里子は大姑の部屋に向かった。
大姑はこの頃、里子を実の娘だと思い込んでいる。
それを利用して、石を買わせようと思いついた。
「おや、正子じゃないか。何か用?」
やはりこの日も里子を、とうに嫁に行った伯母の正子だと思い込んでいる。
「お母さん、今ね、石を売りに来たの。素敵な石よ。買ってもいいかしら」
「石って、エメラルド? ダイヤ?」
「もっと大きくてきれいな石よ。いいでしょう。私すっかり気に入ったの」
娘には甘い大姑は、「仕方ないね。お金はタンスの引き出しにあるから。お父さんには内緒だよ」と笑った。
タンスに大金があることを、里子はとっくに知っていた。
こうして里子は石を買い、庭の真ん中に置いてもらった。
台所からも居間からも寝室からも見えるように置いた。
五年も耐えたんだ。このくらいいいだろうと思った。
帰ってきた姑は、石を見て憤慨した。舅と夫も唖然としている。
「すみません、お義母さん、おばあさまがどうしても買うと仰って。私は止めたんですよ。でも、あの性格ですから……」
全てをボケた大姑のせいにした。
それでも全身を震わせて怒った姑を、夫がなだめた。
「まあまあ、なかなかいい石じゃないか。庭が明るくなったよ。ねえ父さん」
程なく里子が妊娠した。石のご利益だと夫が言い、姑も渋々それを認めた。
石を置いてから、穏やかな日が続いた。
大姑が亡くなり、姑は少しだけ優しくなった。すべては石のおかげだ。
この石は故郷だ。里子は、ずっとそう思って生きてきた。
「三十年間ありがとう」
「本当にいいのか? 大事な石をどかしても」
夫が縁側から声をかけた。もうすぐ結婚するひとり息子のために家を建て替える。
石をどかして二世帯住宅を建てるのだ。
「いいのよ。もう石は必要ないわ」
義父母を看取って自由になった里子は、息子夫婦との暮らしを楽しみにしている。
「あの嫁、気が利かなそうだから、しっかり躾けてあげないとね」
そう言って笑う里子の横顔を、石が映し出した。
*****
公募ガイドTO-BE小説工房の落選作です。
課題は「石」。いろんなエピソードがありそうで、選ぶ方も大変だったかもしれません。
書き終わったときは「すごい、面白い。イケる!」と思ったんだけど、読み返すとイマイチだったかな。
気まずい帰郷 [公募]
車窓に広がる田園風景に妙な安らぎを覚えながら、紘一は二本目の缶ビールを開けた。
シラフでは帰れないほどの不義理をした、十年ぶりの帰郷だ。
うんざりするほど嫌だった田舎暮らしが、何故だかやけに懐かしい。
紘一は地元の大学を出た後、実家の旅館を手伝った。
いずれは自分が継ぐはずの旅館だが、正直まったく向いていなかった。
客商売は性に合わないと、家を飛び出してそれっきり。
客商売が嫌だったくせに、コンビニのバイトで食い繋ぎ、気づけば三十半ばだ。
実家の旅館は二歳下の弟が継ぎ、昨年リニューアルしてなかなか評判のいい旅館になっている。ホームページで笑顔を振りまく美人の若女将は、おそらく弟の嫁さんだろう。
いつの間にか、自分が捨てた旅館のホームページを見ることが日課になった紘一は、今なら帰ってもいいのではないか、と思うようになった。
かなり繁盛しているようだし、客の送迎くらいならやってもいいかな、などと虫のいい事を考えた。
山間の駅に着くと、思ったよりも空気が冷たく、十月なのに吐く息が白かった。
この感覚は久しぶりだ。紘一は思わず身を縮めた。
旅館の送迎バスを頼むわけにもいかないので、勿体ないけどタクシーに乗り込んだ。
「つばき屋旅館に行ってくれ」
「つばき屋さんね。あれ? つばき屋さん、今日休業じゃなかったかな」
「えっ? 年中無休だろ」
「確か臨時休業だよ。葬式とか言ってたな」
「葬式? 誰の?」
「さあ、詳しいことは知らないけど。どうする? 他の宿にするかい?」
「いや、つばき屋に行ってくれ」
紘一は、十倍くらい早く動く心臓を押さえながら、暑くもないのに吹き出す脂汗を拭った。
いったい、誰が死んだんだ。
タクシーを降りると、すっかり酔いは醒めたのに足が震えて転びそうになった。
リニューアルしても老舗旅館の趣は昔のままで、竹で出来た塀と、いい具合にカーブした松の木が紘一を迎えた。
どこにも葬式の花輪などはなかったが、随分閑散とした雰囲気に身が引き締まった。
門を入ると、小さな立て看板があった。葬儀を知らせる看板だ。
そこには、父の名前が書いてあった。
「父さん、まさか、死んだのか」
見るとロビーの中に、礼服の人たちが集まっていた。
ゆらゆら近づくと、庭で小さな女の子が花を摘んでいた。
弟の娘だろうか。目元が写真で見た若女将にそっくりだ。
「君のおじいちゃんのお葬式なの?」
話しかけると女の子は、「おじちゃん、だれ?」と、つぶらな瞳で紘一を見上げた。
初めて会う姪っ子がこんなに可愛い。汚れのない目に、自分はどう映っているのだろう。
中に入るのが怖かった。不義理をして親の死に目にも会えず、今更どんな顔をすればいいのか。
紘一は、このまま逃げ出したくなった。
「そろそろ葬儀が始まりますよ」
葬式にしてはやけに明るい声が聞こえた。きっと若女将の声だ。
「始まるって。行こう、おじちゃん」
女の子に手を引かれ、戸惑いながら中に入った。礼服の人たちが一斉に紘一を見た。
「あら、紘ちゃんじゃないの?」
「本当だ。おまえ何してたんだ、今まで」
「この親不孝者が」と罵倒する親戚たちの間を縫って、母と弟が顔を出した。
「兄さん、おかえり。知らせたわけじゃないのに、今日帰ってくるなんてすごい奇跡だ」
「紘一、やっと帰ってきてくれたのね」
母が涙ながらに紘一の手を握った。
「ごめんよ母さん。連絡もしないで、心配ばっかりかけたね。父さんのことも全然知らなくて。本当にごめんよ」
紘一は、膝をついて泣き崩れた。母がその背中を優しく擦る。
親戚たちも「せいぜい親孝行しろよ」と、紘一の肩を叩いた。
「みなさん、お葬式始めますよー」
若女将の張りのある声が、しんみりした空気を一蹴した。
そうだ。こんなところで泣いている場合ではない。
父の祭壇に手を合わせて、親不孝を詫びよう。
涙を拭いて立ち上がった紘一の前に、突然父が現れた。
「紘一、今更どの面下げて帰ってきた」
白装束姿の父の霊だ。紘一は尻もちをつきながら、必死で詫びた。
「父さん、ごめんよ。これからは心を入れ替える。下働きでも何でもして、母さんを支える。だから、どうか成仏してください」
周りから、どっと笑い声が起こった。父だけが、鬼のような顔で立っている。
「何が成仏だ。まだ死んでない」
「えっ、だって、父さんの葬式だろ」
「生前葬だ」
生前葬? 体中の力が一気に抜けて、紘一はその場に倒れこんだ。
紛らわしいことするなよ。だけど、だけど、よかった。
****
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
課題は「葬儀」でした。
簡単なようで難しくて、なかなか書けず、締切日ギリギリに出した覚えがあります。
だから佳作にも選ばれないと思っていました。よかった!
シラフでは帰れないほどの不義理をした、十年ぶりの帰郷だ。
うんざりするほど嫌だった田舎暮らしが、何故だかやけに懐かしい。
紘一は地元の大学を出た後、実家の旅館を手伝った。
いずれは自分が継ぐはずの旅館だが、正直まったく向いていなかった。
客商売は性に合わないと、家を飛び出してそれっきり。
客商売が嫌だったくせに、コンビニのバイトで食い繋ぎ、気づけば三十半ばだ。
実家の旅館は二歳下の弟が継ぎ、昨年リニューアルしてなかなか評判のいい旅館になっている。ホームページで笑顔を振りまく美人の若女将は、おそらく弟の嫁さんだろう。
いつの間にか、自分が捨てた旅館のホームページを見ることが日課になった紘一は、今なら帰ってもいいのではないか、と思うようになった。
かなり繁盛しているようだし、客の送迎くらいならやってもいいかな、などと虫のいい事を考えた。
山間の駅に着くと、思ったよりも空気が冷たく、十月なのに吐く息が白かった。
この感覚は久しぶりだ。紘一は思わず身を縮めた。
旅館の送迎バスを頼むわけにもいかないので、勿体ないけどタクシーに乗り込んだ。
「つばき屋旅館に行ってくれ」
「つばき屋さんね。あれ? つばき屋さん、今日休業じゃなかったかな」
「えっ? 年中無休だろ」
「確か臨時休業だよ。葬式とか言ってたな」
「葬式? 誰の?」
「さあ、詳しいことは知らないけど。どうする? 他の宿にするかい?」
「いや、つばき屋に行ってくれ」
紘一は、十倍くらい早く動く心臓を押さえながら、暑くもないのに吹き出す脂汗を拭った。
いったい、誰が死んだんだ。
タクシーを降りると、すっかり酔いは醒めたのに足が震えて転びそうになった。
リニューアルしても老舗旅館の趣は昔のままで、竹で出来た塀と、いい具合にカーブした松の木が紘一を迎えた。
どこにも葬式の花輪などはなかったが、随分閑散とした雰囲気に身が引き締まった。
門を入ると、小さな立て看板があった。葬儀を知らせる看板だ。
そこには、父の名前が書いてあった。
「父さん、まさか、死んだのか」
見るとロビーの中に、礼服の人たちが集まっていた。
ゆらゆら近づくと、庭で小さな女の子が花を摘んでいた。
弟の娘だろうか。目元が写真で見た若女将にそっくりだ。
「君のおじいちゃんのお葬式なの?」
話しかけると女の子は、「おじちゃん、だれ?」と、つぶらな瞳で紘一を見上げた。
初めて会う姪っ子がこんなに可愛い。汚れのない目に、自分はどう映っているのだろう。
中に入るのが怖かった。不義理をして親の死に目にも会えず、今更どんな顔をすればいいのか。
紘一は、このまま逃げ出したくなった。
「そろそろ葬儀が始まりますよ」
葬式にしてはやけに明るい声が聞こえた。きっと若女将の声だ。
「始まるって。行こう、おじちゃん」
女の子に手を引かれ、戸惑いながら中に入った。礼服の人たちが一斉に紘一を見た。
「あら、紘ちゃんじゃないの?」
「本当だ。おまえ何してたんだ、今まで」
「この親不孝者が」と罵倒する親戚たちの間を縫って、母と弟が顔を出した。
「兄さん、おかえり。知らせたわけじゃないのに、今日帰ってくるなんてすごい奇跡だ」
「紘一、やっと帰ってきてくれたのね」
母が涙ながらに紘一の手を握った。
「ごめんよ母さん。連絡もしないで、心配ばっかりかけたね。父さんのことも全然知らなくて。本当にごめんよ」
紘一は、膝をついて泣き崩れた。母がその背中を優しく擦る。
親戚たちも「せいぜい親孝行しろよ」と、紘一の肩を叩いた。
「みなさん、お葬式始めますよー」
若女将の張りのある声が、しんみりした空気を一蹴した。
そうだ。こんなところで泣いている場合ではない。
父の祭壇に手を合わせて、親不孝を詫びよう。
涙を拭いて立ち上がった紘一の前に、突然父が現れた。
「紘一、今更どの面下げて帰ってきた」
白装束姿の父の霊だ。紘一は尻もちをつきながら、必死で詫びた。
「父さん、ごめんよ。これからは心を入れ替える。下働きでも何でもして、母さんを支える。だから、どうか成仏してください」
周りから、どっと笑い声が起こった。父だけが、鬼のような顔で立っている。
「何が成仏だ。まだ死んでない」
「えっ、だって、父さんの葬式だろ」
「生前葬だ」
生前葬? 体中の力が一気に抜けて、紘一はその場に倒れこんだ。
紛らわしいことするなよ。だけど、だけど、よかった。
****
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
課題は「葬儀」でした。
簡単なようで難しくて、なかなか書けず、締切日ギリギリに出した覚えがあります。
だから佳作にも選ばれないと思っていました。よかった!
TO-BE 久々の最優秀 [公募]
公募ガイド「TO-BE小説工房」で久しぶりの最優秀をいただきました。
5回目です。
すごく嬉しかったです。
今回のテーマは「窓」
作品タイトルは「ネコが逃げた」です。
ちょうどネコを飼い始めたころに書いたので、すぐに話が浮かんで30分くらいで書き上げました。
書いてて楽しかったです。
そういう方が、いい結果につながるのかも。
作品は、公募ガイド10月号に載っています。
よかったら読んでみて下さいね。
賞金でレイちゃんのご飯でも買うか(笑)
最近、いろいろな公募に挑戦してみようかなと思っていて、なかなかブログが更新できなかったのですが、久々にいい報告ができてよかったです。
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5回目です。
すごく嬉しかったです。
今回のテーマは「窓」
作品タイトルは「ネコが逃げた」です。
ちょうどネコを飼い始めたころに書いたので、すぐに話が浮かんで30分くらいで書き上げました。
書いてて楽しかったです。
そういう方が、いい結果につながるのかも。
作品は、公募ガイド10月号に載っています。
よかったら読んでみて下さいね。
賞金でレイちゃんのご飯でも買うか(笑)
最近、いろいろな公募に挑戦してみようかなと思っていて、なかなかブログが更新できなかったのですが、久々にいい報告ができてよかったです。
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葡萄 [公募]
時々思う。どうして嫌と言えないのだろう。
隣で喋り続ける良枝さんは、鞄から溶けかかったチョコレートを出して、私の手のひらに載せた。ほらまた、要らないと言えなかった。
良枝さんは近所に住む独居老人で、二年前にご主人を亡くした。
暫くは気の毒なほどに泣き暮らしていたが、元号が変わるとともに元気を取り戻し「夫の分まで令和を楽しむわ」と、別人のように活動的になった。
買い物、体験教室、スポーツジム。一人で行けばいいものを、彼女は決まって私を誘う。
車を持たない良枝さんを、駅まで送ったことがきっかけだった。
「困ったときはいつでも声をかけてくださいね」などと言ったばかりに、良枝さんは毎日のように家に来た。
専業主婦で夫は単身赴任中。息子は高校生で手がかからない。
私には、誘いやすい条件が揃い過ぎていた。
しかし今日のバスツアーは、さすがに気が進まなかった。
ツアー客の殆どが年配者であることも理由の一つだが、そもそもバスツアーが苦手だった。
だけど「お願いよ。一人で参加したら寂しい老人みたいじゃないの」と懇願されて仕方なく参加した。
バスは山梨に向かっている。ツアーの目玉は、葡萄狩りだ。
「やっぱりお昼はほうとうかしらね。そういえば、主人が初めてほうとうを食べたとき、なんだこの包帯みたいな麺は、って言ったの。ほうとうとほうたいを掛けたのよ」
良枝さんは、いつもご主人の話をする。
近所でも、ろくに話したことがない人の話をされても、相槌を打つくらいしか出来ない。
「あら見て、富士山よ。ずいぶん近くに見えるのね。主人が一度登ってみたいと言ってたわ。主人の位牌をリュックにいれて登ってみようかしら。ねえ、今度行きましょうよ」
「いや、登山はちょっと」とさすがにもごもごと拒否反応を示したけれど、強引に来られたら断り切れる自信はない。
バスは葡萄園に着いた。昼食は良枝さんの予想通り、ほうとうだった。
「葡萄狩りって言っても、そうは食べられないわよね」良枝さんはそう言いながらも食べる気満々で、奥の方へ進んでいった。
見上げると、いろんな種類の葡萄が見事に実っていた。
薄く光が射す果樹園に、ツアー客たちの笑い声が響く。
私は、急に目眩を憶えてしゃがみ込んだ。
人生二度目の葡萄狩りだった。そして最初の葡萄狩りが最悪だったことを、今更ながらに思い出してしまった。
あれは小学校の遠足だった。昔から引っ込み思案の私は、どのグループにも入れなかった。
一緒にいようと約束をした友達は、熱を出して遠足を休んだ。
バスの座席もひとり、葡萄狩りもひとり、手持無沙汰にもぐもぐと葡萄を食べ続け、帰りのバスでお腹をこわした。
「気持ち悪い」の一言が言えずに、バスの中で吐いてしまった私を、クラスメート達は容赦ない言葉で傷つけた。
「汚い」「臭い」。
切り取ってくしゃくしゃに丸めてトイレに流してしまいたいような、人生最悪の記憶だ。
三十年以上前のことなのに、今でも体中が熱くなるほどに恥ずかしい。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
良枝さんが戻ってきて、私の肩に手を置いた。
「大丈夫です」と青い顔で告げる私に、彼女は小さくため息をついた。
「具合が悪いなら、言ってくれたらいいのに」
私は、自分でも驚くほどの力で良枝さんの手を払いのけた。
「言えないんです。嫌と言えないんです、私。昔からそう。遠足なんて行きたくなかったし、学校も行きたくなかった。PTAの役員も、町内会のお祭り委員も、会社の宴会の幹事も、嫌なのに断れないんです」
お腹の中のものを、全て吐き出すように言葉が出てきた。良枝さんは戸惑っている。
「夫の単身赴任も嫌だったし、月に一度の儀父母との会食だって嫌。嫌だけど嫌だと言えないんです。今日のバスツアーだって……」
そこまで言って、我に返った。良枝さんが、泣きそうな顔で私を見ていた。
「ごめんなさいね。嫌と言えなかったのね」
良枝さんは、とぼとぼと葡萄園の奥に消えた。彼女はこれっきり、私を誘わなくなるだろう。
後味の悪さが、葡萄園を暗く染めた。
帰りのバスで、良枝さんは一言も話さなかった。
押し潰されそうな雰囲気の中、「言わなきゃよかった」という後悔ばかりが残った。
突然目の前に、緑色の葡萄が差し出された。
「すごく甘いわよ。こういうのも、嫌?」
私は首を横に振って、葡萄を食べた。今まで食べた葡萄の中で、一番甘かった。
私たちは景色も見ずに、無言で葡萄を食べ続けた。
「お腹をこわしたら、あなたのせいよ」
「大丈夫ですよ。良枝さん、頑丈だから」
「あら、けっこう言うわね」
バスが着くまでに、ちゃんと謝ろう。そう決めて、また一粒、葡萄を食べた。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「ブドウ」でした。
葡萄と武道、どっちで書くか迷って、結局ギリギリになってしまいました。
最優秀も佳作もすべて「葡萄」の方だった。「武道」で書いたら目立ってたかも^^
最優秀、面白かったです。
こんな男、私もヤダ~って思わず言っちゃった(笑)
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隣で喋り続ける良枝さんは、鞄から溶けかかったチョコレートを出して、私の手のひらに載せた。ほらまた、要らないと言えなかった。
良枝さんは近所に住む独居老人で、二年前にご主人を亡くした。
暫くは気の毒なほどに泣き暮らしていたが、元号が変わるとともに元気を取り戻し「夫の分まで令和を楽しむわ」と、別人のように活動的になった。
買い物、体験教室、スポーツジム。一人で行けばいいものを、彼女は決まって私を誘う。
車を持たない良枝さんを、駅まで送ったことがきっかけだった。
「困ったときはいつでも声をかけてくださいね」などと言ったばかりに、良枝さんは毎日のように家に来た。
専業主婦で夫は単身赴任中。息子は高校生で手がかからない。
私には、誘いやすい条件が揃い過ぎていた。
しかし今日のバスツアーは、さすがに気が進まなかった。
ツアー客の殆どが年配者であることも理由の一つだが、そもそもバスツアーが苦手だった。
だけど「お願いよ。一人で参加したら寂しい老人みたいじゃないの」と懇願されて仕方なく参加した。
バスは山梨に向かっている。ツアーの目玉は、葡萄狩りだ。
「やっぱりお昼はほうとうかしらね。そういえば、主人が初めてほうとうを食べたとき、なんだこの包帯みたいな麺は、って言ったの。ほうとうとほうたいを掛けたのよ」
良枝さんは、いつもご主人の話をする。
近所でも、ろくに話したことがない人の話をされても、相槌を打つくらいしか出来ない。
「あら見て、富士山よ。ずいぶん近くに見えるのね。主人が一度登ってみたいと言ってたわ。主人の位牌をリュックにいれて登ってみようかしら。ねえ、今度行きましょうよ」
「いや、登山はちょっと」とさすがにもごもごと拒否反応を示したけれど、強引に来られたら断り切れる自信はない。
バスは葡萄園に着いた。昼食は良枝さんの予想通り、ほうとうだった。
「葡萄狩りって言っても、そうは食べられないわよね」良枝さんはそう言いながらも食べる気満々で、奥の方へ進んでいった。
見上げると、いろんな種類の葡萄が見事に実っていた。
薄く光が射す果樹園に、ツアー客たちの笑い声が響く。
私は、急に目眩を憶えてしゃがみ込んだ。
人生二度目の葡萄狩りだった。そして最初の葡萄狩りが最悪だったことを、今更ながらに思い出してしまった。
あれは小学校の遠足だった。昔から引っ込み思案の私は、どのグループにも入れなかった。
一緒にいようと約束をした友達は、熱を出して遠足を休んだ。
バスの座席もひとり、葡萄狩りもひとり、手持無沙汰にもぐもぐと葡萄を食べ続け、帰りのバスでお腹をこわした。
「気持ち悪い」の一言が言えずに、バスの中で吐いてしまった私を、クラスメート達は容赦ない言葉で傷つけた。
「汚い」「臭い」。
切り取ってくしゃくしゃに丸めてトイレに流してしまいたいような、人生最悪の記憶だ。
三十年以上前のことなのに、今でも体中が熱くなるほどに恥ずかしい。
「どうしたの? 具合でも悪い?」
良枝さんが戻ってきて、私の肩に手を置いた。
「大丈夫です」と青い顔で告げる私に、彼女は小さくため息をついた。
「具合が悪いなら、言ってくれたらいいのに」
私は、自分でも驚くほどの力で良枝さんの手を払いのけた。
「言えないんです。嫌と言えないんです、私。昔からそう。遠足なんて行きたくなかったし、学校も行きたくなかった。PTAの役員も、町内会のお祭り委員も、会社の宴会の幹事も、嫌なのに断れないんです」
お腹の中のものを、全て吐き出すように言葉が出てきた。良枝さんは戸惑っている。
「夫の単身赴任も嫌だったし、月に一度の儀父母との会食だって嫌。嫌だけど嫌だと言えないんです。今日のバスツアーだって……」
そこまで言って、我に返った。良枝さんが、泣きそうな顔で私を見ていた。
「ごめんなさいね。嫌と言えなかったのね」
良枝さんは、とぼとぼと葡萄園の奥に消えた。彼女はこれっきり、私を誘わなくなるだろう。
後味の悪さが、葡萄園を暗く染めた。
帰りのバスで、良枝さんは一言も話さなかった。
押し潰されそうな雰囲気の中、「言わなきゃよかった」という後悔ばかりが残った。
突然目の前に、緑色の葡萄が差し出された。
「すごく甘いわよ。こういうのも、嫌?」
私は首を横に振って、葡萄を食べた。今まで食べた葡萄の中で、一番甘かった。
私たちは景色も見ずに、無言で葡萄を食べ続けた。
「お腹をこわしたら、あなたのせいよ」
「大丈夫ですよ。良枝さん、頑丈だから」
「あら、けっこう言うわね」
バスが着くまでに、ちゃんと謝ろう。そう決めて、また一粒、葡萄を食べた。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「ブドウ」でした。
葡萄と武道、どっちで書くか迷って、結局ギリギリになってしまいました。
最優秀も佳作もすべて「葡萄」の方だった。「武道」で書いたら目立ってたかも^^
最優秀、面白かったです。
こんな男、私もヤダ~って思わず言っちゃった(笑)
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母の秘密 [公募]
終戦の年に生まれた私は、父の顔を知りません。
南の島で戦死したと、母が話してくれました。遺骨はありませんでした。
そのせいでしょうか、幼少期から同じ夢を何度も見ました。
ジャングルで彷徨っている兵士の夢です。
ジャングルになど行ったことがないのに、やけにリアルな夢でした。
兵士は、彷徨いながら私の名前を叫ぶのです。
「弓子、弓子、必ず帰るから」
空襲で家が焼けたそうで、父の写真は一枚もありませんでした。
だけど私には、その兵士が父だとはっきり分かったのです。
「お母さん、お父さんは南の島で生きているのよ。そのことを私に伝えたくて、夢に出てくるんじゃないかしら」
母は静かに笑いながら、まったく相手にしてくれませんでした。
「弓ちゃん、夢はただの夢よ。お父さんは戦死したのよ」
母はいつも気丈でした。戦前から結核療養所で働き、閉鎖された後は市民病院で看護婦をしながら私を育ててくれました。
あるとき、衝撃的なニュースがありました。
南の島で日本兵が発見されたのです。
終戦を知らずに、二十八年間もジャングルを彷徨っていたのです。
やっぱり、と私は思いました。
「お母さん、きっとお父さんも生きているわ。この兵士のように、今もジャングルを彷徨っているのよ。ねえ、お母さん、何とか捜しに行けないものかしら」
しつこく訴えた私の頬を、母がピシャリと叩きました。
母が手を上げたのは、後にも先にもこのときだけでした。
「いい加減にしなさい。お父さんは死んだのよ。何度も言わせないでちょうだい」
疲れているときに纏わりついたのが、癇に障ったのでしょうか。
それにしても母がどうしてこんなに怒るのか、さっぱり分かりませんでした。
それ以来、父が夢に出てくることはありませんでした。
その翌年私は、ご縁があって結婚をしました。
七歳年上の夫は真面目で優しく、二人の子どもにも恵まれました。
時代はすっかり豊かになり、小さいながらも家を建て、母と一緒に暮らす計画を立てました。
しかしその矢先、母は脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまいました。
「ようやく親孝行が出来ると思ったのに」
苦労続きだった母の手をさすりながら、私はしばらく泣き続けました。
葬儀を終え、夫とふたりで母の遺品を片付けました。
質素な暮らしを続けた母の部屋は、使い込まれた家具や必要最低限の食器など、まるで無駄のない小さな城でした。
抽斗を片付けていたときに、一枚の写真を見つけました。
親子三人が写った写真です。裏には『弓子0歳』と書かれていました。
私を抱いた男性は、幼いころ何度も夢に出てきた兵隊さんでした。やはり父だったのです。
だけどその隣にいる女性は、母ではありませんでした。
幾つかの疑問が私の中で渦を巻きました。
この女性は誰なのか、そもそも父は、私が生まれる前に戦死したのではなかったか。
手を止めて呆然とする私の背後から、夫が写真を覗き込みました。
「あれ、トミエさんじゃないか」
驚いて振り向くと、夫は懐かしそうに写真の女性を指さしました。
「この人、遠い親戚でね、僕が子供のころ、よく家に遊びに来ていたんだよ。赤ん坊を生んで間もなく、亡くなってしまったんだ」
「男性の方は?」
声が震えているのが、自分でも分かりました。
「ご主人は、トミエさんが亡くなった後、結核を患って、暫く療養所にいたけれど治らなかったようだ。せっかく戦争で生き残ったのに、可哀想だってお袋が泣いていたよ」
夫が背を向けて作業に戻った後、私は写真を元の抽斗に戻しました。
母が死ぬまで隠し続けた秘密を、そっと封印したのです。
その夜、久しぶりに父の夢を見ました。
痩せ細った父が、病室の窓から四角い空を見ています。
「弓子を、どうか弓子をお願いします」
傍らに佇む白衣の女性が、「はい」と頷きました。
それは若い日の母でした。
母は、ただ単に情の深い看護婦だったのか、それとも父を深く愛していたのか、今となっては知るすべもありません。
だけど母は、紛れもなく私の母でした。血の繋がりはなくても、私たちは真の親子でした。
元号が新しくなりました。母が生きた年齢を、とうに過ぎました。
可愛い孫もいます。戦争のない平和な日々を、私はこれからも生きていくのです。
**********
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
テーマは「戦争」
こういうテーマは苦手ですが、私の周りにはお年寄りが多くて、お父様を戦争で亡くした方や戦争経験者がいるので、その方たちから聞いた話を参考に書きました。
なかなか難しいですね。
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南の島で戦死したと、母が話してくれました。遺骨はありませんでした。
そのせいでしょうか、幼少期から同じ夢を何度も見ました。
ジャングルで彷徨っている兵士の夢です。
ジャングルになど行ったことがないのに、やけにリアルな夢でした。
兵士は、彷徨いながら私の名前を叫ぶのです。
「弓子、弓子、必ず帰るから」
空襲で家が焼けたそうで、父の写真は一枚もありませんでした。
だけど私には、その兵士が父だとはっきり分かったのです。
「お母さん、お父さんは南の島で生きているのよ。そのことを私に伝えたくて、夢に出てくるんじゃないかしら」
母は静かに笑いながら、まったく相手にしてくれませんでした。
「弓ちゃん、夢はただの夢よ。お父さんは戦死したのよ」
母はいつも気丈でした。戦前から結核療養所で働き、閉鎖された後は市民病院で看護婦をしながら私を育ててくれました。
あるとき、衝撃的なニュースがありました。
南の島で日本兵が発見されたのです。
終戦を知らずに、二十八年間もジャングルを彷徨っていたのです。
やっぱり、と私は思いました。
「お母さん、きっとお父さんも生きているわ。この兵士のように、今もジャングルを彷徨っているのよ。ねえ、お母さん、何とか捜しに行けないものかしら」
しつこく訴えた私の頬を、母がピシャリと叩きました。
母が手を上げたのは、後にも先にもこのときだけでした。
「いい加減にしなさい。お父さんは死んだのよ。何度も言わせないでちょうだい」
疲れているときに纏わりついたのが、癇に障ったのでしょうか。
それにしても母がどうしてこんなに怒るのか、さっぱり分かりませんでした。
それ以来、父が夢に出てくることはありませんでした。
その翌年私は、ご縁があって結婚をしました。
七歳年上の夫は真面目で優しく、二人の子どもにも恵まれました。
時代はすっかり豊かになり、小さいながらも家を建て、母と一緒に暮らす計画を立てました。
しかしその矢先、母は脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまいました。
「ようやく親孝行が出来ると思ったのに」
苦労続きだった母の手をさすりながら、私はしばらく泣き続けました。
葬儀を終え、夫とふたりで母の遺品を片付けました。
質素な暮らしを続けた母の部屋は、使い込まれた家具や必要最低限の食器など、まるで無駄のない小さな城でした。
抽斗を片付けていたときに、一枚の写真を見つけました。
親子三人が写った写真です。裏には『弓子0歳』と書かれていました。
私を抱いた男性は、幼いころ何度も夢に出てきた兵隊さんでした。やはり父だったのです。
だけどその隣にいる女性は、母ではありませんでした。
幾つかの疑問が私の中で渦を巻きました。
この女性は誰なのか、そもそも父は、私が生まれる前に戦死したのではなかったか。
手を止めて呆然とする私の背後から、夫が写真を覗き込みました。
「あれ、トミエさんじゃないか」
驚いて振り向くと、夫は懐かしそうに写真の女性を指さしました。
「この人、遠い親戚でね、僕が子供のころ、よく家に遊びに来ていたんだよ。赤ん坊を生んで間もなく、亡くなってしまったんだ」
「男性の方は?」
声が震えているのが、自分でも分かりました。
「ご主人は、トミエさんが亡くなった後、結核を患って、暫く療養所にいたけれど治らなかったようだ。せっかく戦争で生き残ったのに、可哀想だってお袋が泣いていたよ」
夫が背を向けて作業に戻った後、私は写真を元の抽斗に戻しました。
母が死ぬまで隠し続けた秘密を、そっと封印したのです。
その夜、久しぶりに父の夢を見ました。
痩せ細った父が、病室の窓から四角い空を見ています。
「弓子を、どうか弓子をお願いします」
傍らに佇む白衣の女性が、「はい」と頷きました。
それは若い日の母でした。
母は、ただ単に情の深い看護婦だったのか、それとも父を深く愛していたのか、今となっては知るすべもありません。
だけど母は、紛れもなく私の母でした。血の繋がりはなくても、私たちは真の親子でした。
元号が新しくなりました。母が生きた年齢を、とうに過ぎました。
可愛い孫もいます。戦争のない平和な日々を、私はこれからも生きていくのです。
**********
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
テーマは「戦争」
こういうテーマは苦手ですが、私の周りにはお年寄りが多くて、お父様を戦争で亡くした方や戦争経験者がいるので、その方たちから聞いた話を参考に書きました。
なかなか難しいですね。
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小さな恋の話 [公募]
恵さんの想い人はキリンさん。キリンと言っても、首の長いあの動物じゃない。
カフェで働く店員さんだ。背が高くて穏やかで、おまけにベジタリアン。
黄色のエプロンがやけに似合うから、キリンさんと呼ばれている。
私は、このカフェのオーナーの娘で、名前は香帆。
女子高に通いながら、時々店を手伝っている。
キリンさんは、私が小学生のときから、ここで働いている。
大学を卒業しても、就職もせずにアルバイトをしている。今年で六年目だ。
それってどうなのって思うけど、キリンさん目当ての女性客が多いから「ずっといていいよ」とパパは言っている。
常連客の一人、恵さんの想い人はキリンさんだ。態度を見ていればすぐにわかる。
気づかないのは鈍いキリンさんだけだ。
恵さんは、清楚で優しいOLさん。キリンさんの取り巻きの中では一番の美人だ。
私は、ふたりの恋のキューピットをしてあげることにした。
お似合いだし、高校生の私にも、ちゃんと敬語で話してくれる恵さんに好感を抱いていた。
ある日恵さんは、私にそっと囁いた。
「キリンさんって、彼女いるんですか?」
「いないと思うよ。無骨な奴だからね」
敬語を使わない女子高生にも、恵さんは嫌な顔をしない。
頬を赤く染めて、嬉しそうにうつむくのだ。なんて可愛い人だろう。
女の私でも、思わず抱きしめたくなる。
少ない小遣いの中から、映画のチケットを三枚買った。
土曜日の昼下がり、カフェの客は恵さんしかしない。いよいよ恋の大作戦だ。
「ねえ、キリンさん。映画のチケットもらったんだけど行かない?」
わざと大声で言う。チケットを見せたら、キリンさんはすぐに飛びついた。
「あっ、これ観たかったやつ。いいの?」
キリンさんは、大きな手でチケットを受け取った。
嬉しそうな笑顔が目の前にあった。
膝を折って屈んで、いつでも目線を合わせてくれるキリンさんは、そのせいか少し姿勢が悪い。
私は、フロアでこちらをチラ見する恵さんに、もう一枚のチケットを渡した。
「三枚あるから、一緒に行かない?」
「えっ、いいんですか? 悪いわ」
私は彼女に目配せをする。「あたし途中で消えるから」と耳元で囁く。
恵さんは、頬を赤く染めながら「ありがとう」と言った。
さて当日、映画館の前で待ち合わせ。
頭一つ抜けているキリンさんは、どこにいたってすぐに見つけられる。
いシャツにジーンズ姿。エプロンがないと別人みたいだ。
恵さんが来た。淡いピンクのワンピース。どこまでも清楚な人だ。
三人揃ったところで、私はわざとらしくスマホを耳に当てる。
「えー、今から。マジで。わかったー」
小芝居をして二人を振り返る。
「ごめん。彼氏から呼び出し。あたし抜けるね。映画はお二人でどうぞ」
「えっ、香帆ちゃん、彼氏いたの?」
キリンさんが私の顔を覗き込む。
嘘がばれないように背を向けて「彼氏くらいいるよ。女子高生なめんなよ」と言いながら、一気に走った。
人ごみを抜けて振り返ると、遠くにぼうっと佇むキリンさんが見えた。
「うまくいったら、何か奢れよ。お二人さん」
絶対聞こえない距離でつぶやいた。
家に帰っても、何もやることはない。何だか虚しくなってきたけど、これでいい。
私の想い人はキリンさん。小学生の時からずっと同じ。
だけどまるで子ども扱いだし、もういい加減片想いにも疲れたし、いっそキリンさんに素敵な彼女が出来ればいいと思った。
恵さんとだったらお似合いだ。これで私もきれいさっぱり次に進める。
夜になって、恵さんから電話が来た。
「香帆ちゃん、今日は本当にありがとう」
「夕飯奢ってもらった?」
「ええ、お好み焼きを二人で食べたわ」
お好み焼きかよ。もっといい店なかったのかよ。まあ、キリンさんらしいけど。
「最後に、いい思い出ができたわ」
恵さんがポツンと言った。
「最後って?」
「私、もうすぐ実家に帰るの。母の具合が悪くてね。たぶんもう、カフェに行くこともないと思うわ」
「えっ? でもいいの? キリンさんのこと」
「ええ、もういいの。キリンさんが好きな人は、私じゃないもの。本当はとっくにわかっていたのよ」
「えっ、だれ?」
恵さんは、ふふっと笑った。
「いつも近くにいる、口の悪い女の子よ」
えっ? それって私? いやいやまさか。
「キリンさんはね、彼女が大人になるのを待っているのよ。きっと首を長~くしてね」
キリンだけに、と恵さんはコロコロと笑った。
そんな冗談言う人だっけ? 私は耳まで真っ赤になった。
明日から、どうすりゃいいのさ。
*********
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただい作品です。
課題は「キリン」
難しい課題ですよね。本物のキリンを登場させる話は全く思いつかなかったです。
それで、こんな可愛らしい話になりました。
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カフェで働く店員さんだ。背が高くて穏やかで、おまけにベジタリアン。
黄色のエプロンがやけに似合うから、キリンさんと呼ばれている。
私は、このカフェのオーナーの娘で、名前は香帆。
女子高に通いながら、時々店を手伝っている。
キリンさんは、私が小学生のときから、ここで働いている。
大学を卒業しても、就職もせずにアルバイトをしている。今年で六年目だ。
それってどうなのって思うけど、キリンさん目当ての女性客が多いから「ずっといていいよ」とパパは言っている。
常連客の一人、恵さんの想い人はキリンさんだ。態度を見ていればすぐにわかる。
気づかないのは鈍いキリンさんだけだ。
恵さんは、清楚で優しいOLさん。キリンさんの取り巻きの中では一番の美人だ。
私は、ふたりの恋のキューピットをしてあげることにした。
お似合いだし、高校生の私にも、ちゃんと敬語で話してくれる恵さんに好感を抱いていた。
ある日恵さんは、私にそっと囁いた。
「キリンさんって、彼女いるんですか?」
「いないと思うよ。無骨な奴だからね」
敬語を使わない女子高生にも、恵さんは嫌な顔をしない。
頬を赤く染めて、嬉しそうにうつむくのだ。なんて可愛い人だろう。
女の私でも、思わず抱きしめたくなる。
少ない小遣いの中から、映画のチケットを三枚買った。
土曜日の昼下がり、カフェの客は恵さんしかしない。いよいよ恋の大作戦だ。
「ねえ、キリンさん。映画のチケットもらったんだけど行かない?」
わざと大声で言う。チケットを見せたら、キリンさんはすぐに飛びついた。
「あっ、これ観たかったやつ。いいの?」
キリンさんは、大きな手でチケットを受け取った。
嬉しそうな笑顔が目の前にあった。
膝を折って屈んで、いつでも目線を合わせてくれるキリンさんは、そのせいか少し姿勢が悪い。
私は、フロアでこちらをチラ見する恵さんに、もう一枚のチケットを渡した。
「三枚あるから、一緒に行かない?」
「えっ、いいんですか? 悪いわ」
私は彼女に目配せをする。「あたし途中で消えるから」と耳元で囁く。
恵さんは、頬を赤く染めながら「ありがとう」と言った。
さて当日、映画館の前で待ち合わせ。
頭一つ抜けているキリンさんは、どこにいたってすぐに見つけられる。
いシャツにジーンズ姿。エプロンがないと別人みたいだ。
恵さんが来た。淡いピンクのワンピース。どこまでも清楚な人だ。
三人揃ったところで、私はわざとらしくスマホを耳に当てる。
「えー、今から。マジで。わかったー」
小芝居をして二人を振り返る。
「ごめん。彼氏から呼び出し。あたし抜けるね。映画はお二人でどうぞ」
「えっ、香帆ちゃん、彼氏いたの?」
キリンさんが私の顔を覗き込む。
嘘がばれないように背を向けて「彼氏くらいいるよ。女子高生なめんなよ」と言いながら、一気に走った。
人ごみを抜けて振り返ると、遠くにぼうっと佇むキリンさんが見えた。
「うまくいったら、何か奢れよ。お二人さん」
絶対聞こえない距離でつぶやいた。
家に帰っても、何もやることはない。何だか虚しくなってきたけど、これでいい。
私の想い人はキリンさん。小学生の時からずっと同じ。
だけどまるで子ども扱いだし、もういい加減片想いにも疲れたし、いっそキリンさんに素敵な彼女が出来ればいいと思った。
恵さんとだったらお似合いだ。これで私もきれいさっぱり次に進める。
夜になって、恵さんから電話が来た。
「香帆ちゃん、今日は本当にありがとう」
「夕飯奢ってもらった?」
「ええ、お好み焼きを二人で食べたわ」
お好み焼きかよ。もっといい店なかったのかよ。まあ、キリンさんらしいけど。
「最後に、いい思い出ができたわ」
恵さんがポツンと言った。
「最後って?」
「私、もうすぐ実家に帰るの。母の具合が悪くてね。たぶんもう、カフェに行くこともないと思うわ」
「えっ? でもいいの? キリンさんのこと」
「ええ、もういいの。キリンさんが好きな人は、私じゃないもの。本当はとっくにわかっていたのよ」
「えっ、だれ?」
恵さんは、ふふっと笑った。
「いつも近くにいる、口の悪い女の子よ」
えっ? それって私? いやいやまさか。
「キリンさんはね、彼女が大人になるのを待っているのよ。きっと首を長~くしてね」
キリンだけに、と恵さんはコロコロと笑った。
そんな冗談言う人だっけ? 私は耳まで真っ赤になった。
明日から、どうすりゃいいのさ。
*********
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただい作品です。
課題は「キリン」
難しい課題ですよね。本物のキリンを登場させる話は全く思いつかなかったです。
それで、こんな可愛らしい話になりました。
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セイシツさん [公募]
仕方ないだろう。一夫多妻制は国の方針なんだから。
僕だって大変なんだ。四軒の家を行ったり来たり。
君をないがしろにしているわけじゃないんだ。
そもそも君は「セイシツ」なんだから、どーんと構えていればいいのさ。
夫はそう言って出て行った。三週間ぶりの我が家での滞在時間は、僅か35分だった。
結婚しない男女が増え、少子化がどうしようもなく深刻化した。
そこで国は、子どもの数を増やすために一部の富裕層に、一夫多妻制度を導入した。
古き日本の風習であった「側室」を持つことが認められた上に、側室に子どもが出来れば社会的地位が上がる。
当初は女性蔑視との批判も出たが、実際に子どもの数は増えたし、恋愛よりも側室という若い女も増えた。
やがて「セイシツ」「ソクシツ」などと、如何にも軽い呼び方をされ、その制度は社会に広まっていった。
「カンナの子どもが生まれた。祝いの品を持って行ってくれ」
夫からの短い連絡。
カンナというのは三人目のソクシツで、水商売上がりの若い女だ。
祝いの品など持って行きたくないが、それが習わしとなっている。
セイシツ、ソクシツ間の確執を和らげるために考えられたものだ。
セイシツご用達の店に行き、ベビー服に夫の苗字を刺繍してもらう。
それが祝いの品である。子どもを夫の子として認めた印だ。
そのまま病院に向かうと、カンナは「ヤッホー、セイシツさん」と、大きな胸を更に揺らして手を振った。
「女の子だそうで、おめでとうございます」
「ねえ、セイシツさん、赤ちゃん見た? あっくんにそっくりなんだよ」
あっくんというのは、夫の篤宏のことらしい。私より20歳も若いカンナに、鼻の下を伸ばす夫の顔が浮かぶ。
「ねえ、うちの子何人目?」
「5人目です。第1ソクシツと第2ソクシツとの間に、子どもが2人ずついますから」
「えっ、セイシツさんには子どもいないの?」
「ええ、結婚当初に婦人科系の病気を患って、子どもは諦めました」
「うわあ、かわいそう」
カンナは、憐れむような眼で私を見た。
子どもを諦めた夜、夫は君がいればそれでいいと、優しく抱きしめてくれた。
私は決して可哀想なんかじゃなかった。ふたりの暮らしは、充分に幸せだった。
忌々しいあの制度が出来るまでは。
木枯らしに背中を押されながら帰った。
私に子どもがいたら、夫はソクシツを持たなかっただろうか。
いや、それはない。夫の経済力なら、ソクシツを持たない方が非難される。
そういう世の中なのだ。
カンナが退院してまもなく、我が家にソクシツたちが集まることになった。
子ども同士の交流が目的だ。年に数回行われている。
異母兄弟である子どもたちは、別室で仲良く遊んでいるが、ソクシツたちは険悪だ。
「カンナさん、あなた出来ちゃったソクシツなんですって?」
「正式な契約もせずに妊娠するなんて、どうかと思うわ」
「別にいいじゃん。契約するつもりだったもん。順番が違っただけでしょ」
「ソクシツが増えたせいで、私たちのところに来る回数が減ったじゃないの」
「そうよ。うちの子はまだ幼稚園よ」
「私のところだって反抗期真っただ中よ。父親がいないと困るわ」
カンナがふっと肩をすくめた。
「回数が減ったのは、おばさんたちに飽きたからじゃないの? ねえ、あっくん」
「なんですって!」
怒鳴りあう女たちの間で、夫がオロオロしている。
赤ん坊が寝ているそばで、よくもくだらない痴話げんかが出来るものだ。
私はそんな騒動を尻目に、子どもたちのところへ行く。
「さあ、焼き立てのクッキーよ」
「わあ、おいしそう。セイシツのおばちゃん、ありがとう」
「好きなだけ食べなさいね」
「セイシツのおばちゃん、優しいから好き」
「ボクも好き」
私は、子どもたちを手名付ける。年老いたら面倒を看てもらうためだ。
夫なんて当てにならないし、欲深いソクシツたちなど、端から当てにしていない。
頼れるのは、未来を担う子どもたちだ。
「ボク、セイシツのおばちゃんがママならよかったな。全然怒らないしお小遣いくれるし」
「ボクも」「わたしも」
「じゃあ、おばさんが年を取ったら一緒に暮らしてね」
「うん、いいよ」
こういう特典がなかったら、やってられないわ。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「修羅場」でした。最近本当にレベルが高くて。
難しいな~
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僕だって大変なんだ。四軒の家を行ったり来たり。
君をないがしろにしているわけじゃないんだ。
そもそも君は「セイシツ」なんだから、どーんと構えていればいいのさ。
夫はそう言って出て行った。三週間ぶりの我が家での滞在時間は、僅か35分だった。
結婚しない男女が増え、少子化がどうしようもなく深刻化した。
そこで国は、子どもの数を増やすために一部の富裕層に、一夫多妻制度を導入した。
古き日本の風習であった「側室」を持つことが認められた上に、側室に子どもが出来れば社会的地位が上がる。
当初は女性蔑視との批判も出たが、実際に子どもの数は増えたし、恋愛よりも側室という若い女も増えた。
やがて「セイシツ」「ソクシツ」などと、如何にも軽い呼び方をされ、その制度は社会に広まっていった。
「カンナの子どもが生まれた。祝いの品を持って行ってくれ」
夫からの短い連絡。
カンナというのは三人目のソクシツで、水商売上がりの若い女だ。
祝いの品など持って行きたくないが、それが習わしとなっている。
セイシツ、ソクシツ間の確執を和らげるために考えられたものだ。
セイシツご用達の店に行き、ベビー服に夫の苗字を刺繍してもらう。
それが祝いの品である。子どもを夫の子として認めた印だ。
そのまま病院に向かうと、カンナは「ヤッホー、セイシツさん」と、大きな胸を更に揺らして手を振った。
「女の子だそうで、おめでとうございます」
「ねえ、セイシツさん、赤ちゃん見た? あっくんにそっくりなんだよ」
あっくんというのは、夫の篤宏のことらしい。私より20歳も若いカンナに、鼻の下を伸ばす夫の顔が浮かぶ。
「ねえ、うちの子何人目?」
「5人目です。第1ソクシツと第2ソクシツとの間に、子どもが2人ずついますから」
「えっ、セイシツさんには子どもいないの?」
「ええ、結婚当初に婦人科系の病気を患って、子どもは諦めました」
「うわあ、かわいそう」
カンナは、憐れむような眼で私を見た。
子どもを諦めた夜、夫は君がいればそれでいいと、優しく抱きしめてくれた。
私は決して可哀想なんかじゃなかった。ふたりの暮らしは、充分に幸せだった。
忌々しいあの制度が出来るまでは。
木枯らしに背中を押されながら帰った。
私に子どもがいたら、夫はソクシツを持たなかっただろうか。
いや、それはない。夫の経済力なら、ソクシツを持たない方が非難される。
そういう世の中なのだ。
カンナが退院してまもなく、我が家にソクシツたちが集まることになった。
子ども同士の交流が目的だ。年に数回行われている。
異母兄弟である子どもたちは、別室で仲良く遊んでいるが、ソクシツたちは険悪だ。
「カンナさん、あなた出来ちゃったソクシツなんですって?」
「正式な契約もせずに妊娠するなんて、どうかと思うわ」
「別にいいじゃん。契約するつもりだったもん。順番が違っただけでしょ」
「ソクシツが増えたせいで、私たちのところに来る回数が減ったじゃないの」
「そうよ。うちの子はまだ幼稚園よ」
「私のところだって反抗期真っただ中よ。父親がいないと困るわ」
カンナがふっと肩をすくめた。
「回数が減ったのは、おばさんたちに飽きたからじゃないの? ねえ、あっくん」
「なんですって!」
怒鳴りあう女たちの間で、夫がオロオロしている。
赤ん坊が寝ているそばで、よくもくだらない痴話げんかが出来るものだ。
私はそんな騒動を尻目に、子どもたちのところへ行く。
「さあ、焼き立てのクッキーよ」
「わあ、おいしそう。セイシツのおばちゃん、ありがとう」
「好きなだけ食べなさいね」
「セイシツのおばちゃん、優しいから好き」
「ボクも好き」
私は、子どもたちを手名付ける。年老いたら面倒を看てもらうためだ。
夫なんて当てにならないし、欲深いソクシツたちなど、端から当てにしていない。
頼れるのは、未来を担う子どもたちだ。
「ボク、セイシツのおばちゃんがママならよかったな。全然怒らないしお小遣いくれるし」
「ボクも」「わたしも」
「じゃあ、おばさんが年を取ったら一緒に暮らしてね」
「うん、いいよ」
こういう特典がなかったら、やってられないわ。
*****
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「修羅場」でした。最近本当にレベルが高くて。
難しいな~
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