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青田風 [ファンタジー]

最近、故郷の夢を見る。
もう20年も帰っていない僕の故郷は、田園風景が広がる田舎町だ。
鳥のさえずりで目覚め、カエルの合唱を聞きながら眠った。
緑一面の田んぼに風が吹くと、まるでさざ波みたいに稲が揺れた。
「青田風っていうのよ」と教えてくれたのは、母だったか、それとも姉だったか。

生まれ育った家はもうない。両親も、もういない。
帰る家なんかないのに無性に恋しい。

憂鬱な月曜日、気がつけば、故郷へ向かう電車に乗っていた。
満員電車に嫌気がさして、部長の小言に辟易していた。
JR線で2時間、ローカル線で40分のところが僕の故郷だ。
人気のない駅に降りて、歩いて15分。
通学路だった畦道、競い合ってザリガニを捕った小川。
何もかもが、昔のままだ。
さやさやと波打つ緑色の稲は、もう15センチほどに伸びている。
「ああ、いい風だ」
せっかくなので、実家があった場所まで行ってみることにした。
もちろん家はもうないけれど、「ただいま」と言ってみたかった。

角を曲がると、黒い瓦屋根が見えた。僕の家だ。まさか、あるはずがない。
近づくと、垣根の中から声がする。明るい笑い声と食器が重なり合う音。
覗いてみたらカフェだった。バラのアーチと庭に並んだ白いテーブル。
客席の間をくるくる回って料理を運んでいるのは、僕の姉だ。
「姉ちゃん?」
姉が僕に気づいて手招きをした。
「進じゃないの。珍しいわね。仕事はお休みなの?」
「あ…いや、そんなことより、どうしたの、これ。家は8年前に壊したはずだ。更地にして地元の不動産屋に二束三文で買い叩かれたって、姉ちゃん言ってただろう」
「そうだったかしら。きっと気が変わったのよ。ほら、今流行ってるでしょ、古民家カフェ。私ね、ずっとやりたかったの。自分で作った無農薬の野菜を使ったランチよ。なかなか評判でね、地元の人以外も来てくれるのよ」
姉は、イキイキしていた。
確かにこのところ連絡を取り合っていなかったけれど、まさか田舎に帰っていたなんて。

「進、あんた疲れてるみたいね。私の料理食べていきなさい」
姉は素早く家の中に入ると、たくさんのハーブや野菜に囲まれたグリルチキンと味噌を塗ったおにぎりをプレートに乗せて運んできた。
「今日のランチよ。食べてみて」
それは、とても懐かしい味だった。農作業をする父と母の顔が浮かんだ。
「やだ、あんた泣いてるの?」
「すごく美味いよ、姉ちゃん。俺、何だか元気が出た。明日からも頑張れる気がする」
「そう。まあ、そんなに頑張らなくていいわよ。次は奥さんと子供も連れてきなさい」

古民家カフェか。考えてみれば、更地にするよりずっといい。
父と母も、空の上できっと喜んでいるだろう。
姉はバツイチで子供もいない。ここを居場所にすることに、何の不都合もない。
「ありがとう、姉ちゃん。故郷があるって、いいね」
僕は姉に礼を言ってカフェを出た。
今から帰れば夕方には家に着く。たまにはゆっくり家族と話そう。

畦道でスマホの電源を入れたら、部長からと妻からの着信が山のようにあった。
部長には明日謝ろう。とりあえず、妻にだけ電話をかけた。
「あなた、いったいどうしたの? どこにいるのよ。会社から電話があったから、具合が悪くて病院に行ったって伝えておいたわ。それにしてもどういうこと? 連絡くらいしてよ」
「ごめん。悪かった。帰ってからゆっくり話すよ」
「それよりあなた、落ち着いて聞いてね。あのね、お義姉さんが亡くなったのよ」
「えっ? 何言ってるの?」
「ずっと入院していたらしいのよ。それでね、今朝亡くなったって病院から電話があったの。お義姉さんね、うわ言のように帰りたいって言っていたそうよ。せっかくマンションを買ったのに、もう帰れないのね。可哀想に」
通話を切ってカフェに戻った。
そこは、雑草だらけの空き地だった。古ぼけた『売地』の看板が風に揺れていた。

僕は畦道に座って、緑色の海を見ていた。波のように右へ左へ揺れる稲が触れ合う小さな音を聞いていた。
姉が帰りたかったのはマンションじゃない。この田園風景の中だ。
さざ波みたいに揺れる稲に囲まれた風景だ。
「青田風っていうのよ」
いつの間にか隣に座っていた姉が言う。
「知ってるよ」
僕は、風に消えそうな小さな声でつぶやいた。

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