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若さの秘訣 [男と女ストーリー]

ご近所に住む絵里香さん。
私より2歳くらい年上のはずだけど、驚くほど若くて輝いている。
「若さの秘訣は何なの?」と尋ねてみたら、ニッコリ笑ってこう言った。
「そうねえ、強いて言えば、恋かしら。詳しく知りたい?」

その夜、絵里香さんに誘われて、会員制のバーに行った。
このバーで、若返りドリンクでも飲んでいるのだろうか。
絵里香さんに続いて中に入ると、カウンターだけの小さな店だった。
春の陽ざしみたいな暖かい色の照明が、店全体を包んでいる。
「いらっしゃいませ。今日は如何なさいますか」
低い声のマスターが、洒落たカードを手渡す。
「そうねえ、1985年もの、出していただける」
「かしこまりました」

「そのカード、なに? 絵里香さん専用みたいだけど。もしかしてワインのボトルをキープしているの?」
「違うわ。キープしているのは思い出よ。恋の思い出」
マスターが、桐の箱を持ってきた。
中には、たくさんの手紙や写真が入っている。
「1985年、私は丸の内のOLだった。華やかだったわ。エリートたちに連日誘われたけど、見向きもしなかった。私の彼は、売れない小説家だったのよ。貧乏だけど夢だけは持っている素敵な人だったな。多分今も売れてないけど。でもね、親にも友達からも反対されて、結局別れちゃったの。見て、彼のラブレターがこんなにたくさん。すごくロマンチックなのよ」
絵里香さんはウットリしながら昔のラブレターを読んだ。
「今日は気分がいいから、1975年ものもいっちゃおうかな」
「かしこまりました」

1975年、女子高生の絵里香さんは、美術教師と秘密の恋をしていたらしい。
愛を確かめ合ったスケッチブックの切れ端。
先生が描いた絵里香さんの絵。絵の具がついてしまった制服のスカーフ。
絵里香さんは瞳を潤ませて眺めた。
その後も絵里香さんは、何十年も前の恋と、その頃のピュアな自分を思い出して一喜一憂した。つまり、それが若さの秘訣だという。

「そうだったのね。じゃあ私には無理だ。そんな思い出ないもの」
「ご主人との思い出があるじゃないの」
「短大を出て就職した会社で知り合って、そのまま出来ちゃった結婚だもん」
「そうか。確かに主人との思い出は、私も保管してないわ。現在進行形だからかしらね」
だけど絵里香さんは幸せそうだ。定年退職したご主人は穏やかで優しい。
私は溜息を吐いた。
私の夫はいつも仕事ばかり。定年間近の今でさえ、帰ってくるのは深夜だ。
もっとたくさん恋をすればよかったと、早々に結婚してしまったことを悔やんだ。
私はきっと、このままどんどん、おばあさんになっていくのだ。

数日後、夫が会社で倒れて、そのまま帰らぬ人となってしまった。
無理していたことに、ちゃんと気づいてあげられなかった。
悲しかったけれど、どこか解放されたような気もした。

あのバーから電話があったのは、四十九日が終わった秋の日暮れだ。
「山田様の思い出をお預かりしております」
低い声のマスターが、お悔やみの後に告げた。
夫があのバーの会員だったとは、まったく知らなかった。

絵里香さんに付き合ってもらってバーに行き、夫の桐の箱を出してもらった。
恐る恐る開けると、そこには私が書いた走り書きのようなメモがぎっしり詰まっていた。
『お仕事ご苦労さま』『ごはん、チンして食べて』『ひろ子が熱を出しました』『パパうんどうかい、くる?』『結婚記念日だけど早く帰るのは無理だよね』『明日実家に行ってきます』『カレー温めて食べてね』

「やだ、こんな広告の裏の走り書きを、どうして?」
「山田様は、仕事の合間に時々来られて、楽しそうに読んでいましたよ」
「ご主人にとってはラブレターだったのね」
いつからか、こんなメモさえ書かなくなった。どうせ遅いし、どうせ無駄だし。
私の涙が止まるまで、絵里香さんは優しく肩を抱いてくれた。

それから私は、夫との思い出をバーに預けた。
振り返れば、素敵なことがたくさんあった。
月に数回バーに通って、夫との思い出に浸っている。

ある日、近所の奥さんに声をかけられた。
「山田さん、最近輝いているわ。若さの秘訣は何なの?」

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