雨の日は憂鬱 [ホラー]
朝から雨が降っていたので仕事を休んだ。
怠け者だと思わないでほしい。雨の日は、出かけたくない。
なぜなら、見えてしまうから。
歩道橋の下や踏切の前、橋のたもと、交差点の真ん中。
成仏できない霊たちが、私を見つけて傘の中に入ってくる。
「ねえ、お願い、助けて」
私は霊媒師ではないし、どうすることも出来ない。
ただひたすら、気づかないふりで歩くしかない。
それはとても辛く、苦しい時間だ。
身体中が重くなり、この上なく憂鬱になる。
出かけないと決めた日に限って、母から連絡が入る。
「咲ちゃん、具合が悪いのよ。すぐに帰ってきてくれない?」
母はいつも私を頼る。家を出てひとり暮らしを始めても、母は私を束縛する。
ため息まじりに家を出る。
霊が入ってきそうになると傘を閉じて耳をふさいだ。
おかげで家に着いたときにはびしょ濡れで、まるで私の方が幽霊みたいだった。
「ああ、帰ってきてくれたのね。さっきから頭が痛くてね」
母がソファーに力なく座っていた。
どうせ私を呼び戻す口実と知りながら、「大丈夫?」と声をかける。
母は私にすがり、決まって繰り返す。
「咲ちゃん、帰ってきてよ。私はこの家を出られないんだから」
「無理だよ」
「じゃあせめて今日泊まって行ってよ。寂しくて耐えられない」
「何言ってるの?再婚相手がいるのに冗談じゃないわ」
「あんな人、気にしなくていいのよ」
「気にするわ。私はあの人が来たから家を出たのよ」
母はだるそうに頭を抱えた。雨がますます強く降ってきた。
窓の外に何人もの霊が、ずぶぬれで私を見ている。
玄関を開ける音がした。
再婚相手が帰ってきたようだ。
「お母さん、私帰るね。あの人が帰ってきたみたいだから」
母は再び私にすがった。「行かないで。あの人とふたりにしないで」
再婚相手が、軋むような鈍い音を立ててリビングに入ってきた。
青い顔で、乱れた髪をかきあげて私を睨んだ。
「あら、咲さん来てたの? まあ、元々ここはあなたの家だから自由だけど、来るなら連絡くらい欲しいわね」
「ごめんなさい。ちょっと、忘れ物を取りに」
「あら、それならお母さんの仏壇も、いっしょに持っていってくれないかしら。あれがあると落ち着かなくて。何だかいつも見られている気がするのよ」
父の再婚相手は、いかにも体調が悪そうにため息をついた。
無理もない。あの人のまわりに、母の霊が張り付いているのだから。
「雨の日は気分が悪いわ」
そう言って座り込んだあの人の後ろで、母の霊が私に訴える。
『ねえ、お願い、この人を追い出して。お願い、助けて』
ああ、これだから雨の日は…。
にほんブログ村
怠け者だと思わないでほしい。雨の日は、出かけたくない。
なぜなら、見えてしまうから。
歩道橋の下や踏切の前、橋のたもと、交差点の真ん中。
成仏できない霊たちが、私を見つけて傘の中に入ってくる。
「ねえ、お願い、助けて」
私は霊媒師ではないし、どうすることも出来ない。
ただひたすら、気づかないふりで歩くしかない。
それはとても辛く、苦しい時間だ。
身体中が重くなり、この上なく憂鬱になる。
出かけないと決めた日に限って、母から連絡が入る。
「咲ちゃん、具合が悪いのよ。すぐに帰ってきてくれない?」
母はいつも私を頼る。家を出てひとり暮らしを始めても、母は私を束縛する。
ため息まじりに家を出る。
霊が入ってきそうになると傘を閉じて耳をふさいだ。
おかげで家に着いたときにはびしょ濡れで、まるで私の方が幽霊みたいだった。
「ああ、帰ってきてくれたのね。さっきから頭が痛くてね」
母がソファーに力なく座っていた。
どうせ私を呼び戻す口実と知りながら、「大丈夫?」と声をかける。
母は私にすがり、決まって繰り返す。
「咲ちゃん、帰ってきてよ。私はこの家を出られないんだから」
「無理だよ」
「じゃあせめて今日泊まって行ってよ。寂しくて耐えられない」
「何言ってるの?再婚相手がいるのに冗談じゃないわ」
「あんな人、気にしなくていいのよ」
「気にするわ。私はあの人が来たから家を出たのよ」
母はだるそうに頭を抱えた。雨がますます強く降ってきた。
窓の外に何人もの霊が、ずぶぬれで私を見ている。
玄関を開ける音がした。
再婚相手が帰ってきたようだ。
「お母さん、私帰るね。あの人が帰ってきたみたいだから」
母は再び私にすがった。「行かないで。あの人とふたりにしないで」
再婚相手が、軋むような鈍い音を立ててリビングに入ってきた。
青い顔で、乱れた髪をかきあげて私を睨んだ。
「あら、咲さん来てたの? まあ、元々ここはあなたの家だから自由だけど、来るなら連絡くらい欲しいわね」
「ごめんなさい。ちょっと、忘れ物を取りに」
「あら、それならお母さんの仏壇も、いっしょに持っていってくれないかしら。あれがあると落ち着かなくて。何だかいつも見られている気がするのよ」
父の再婚相手は、いかにも体調が悪そうにため息をついた。
無理もない。あの人のまわりに、母の霊が張り付いているのだから。
「雨の日は気分が悪いわ」
そう言って座り込んだあの人の後ろで、母の霊が私に訴える。
『ねえ、お願い、この人を追い出して。お願い、助けて』
ああ、これだから雨の日は…。
にほんブログ村
真夜中の廃墟 [ホラー]
キリコから電話がきたのは、深夜2時だった。
「ハコ、どうしよう。マサルが出てこないんだよ」
「出てこないって、どこから?」
「廃墟だよ。F町のはずれの廃墟。入ったきり出てこないんだ」
「あんたたち、まだそんなことやってんの?」
キリコとマサルは、心霊スポット巡りが趣味で、あたしも前は一緒に行っていた。
だけどキリコとマサルが付き合い始めたのを知って、行くのをやめた。
ふたりがこっそり手をつないだり、囁き合ったりするのを見たくなかった。
「勘弁してよ」と言いながら、あたしは車を走らせた。
キリコのためじゃない。心霊スポットが好きなくせに怖がりのマサルが心配だったからだ。
誰も歩いていない寂しい街道。
道は徐々に狭くなり、背の高い草が車のミラーをこするたび、背中がひやりとした。
壊れかけたコンクリートの建物が現れた。20年前に閉鎖されたリゾートホテルだ。
F町の廃墟は、深い靄に包まれていた。
ライトに人影が映った。マサルだった。
「なんだ、マサルいるじゃん」
車を降りて近づくと、マサルはひとりでぼんやり立っていた。
「キリコは?」
「たぶん中にいる」
「何やってんのよ。まったく」
きっとキリコは、なかなか出てこないマサルを捜しに、再び廃墟に入ったのだろう。
「キリコを迎えに行こう」
そう言ってマサルの腕を取ると、それは氷のように冷たかった。
「マサル、よほど怖かったのね。大丈夫?」
「ハコが一緒に行ってくれるなら大丈夫」
弱気なマサルに、今更ながらときめいた。
悟られないように、マサルの前を歩き出した。
ケイタイが震えた。キリコからだった。
「キリコ、何やってんのよ、まったく」
「それはこっちのセリフだよ。ハコこそ何やってんの。早く来てよ」
「え?あたしは廃墟の前にいるよ」
ねえ、と振り返ってマサルを見た。
マサルは青い顔で笑っている。靄のせいか、輪郭がぼやけている。
「ハコ、早く行こう」
マサルがあたしの手を握った。冷たい手。まるで…。
ケイタイから、キリコの声が叫び続ける。
「ハコ、ハコ、どうしたの?どこにいるの?」
泣き叫ぶようなキリコの声に、あたしは応えなかった。
キリコ、悪いわね。マサルはあたしを選んだわ。
あたしはマサルに寄りそって、廃墟へと歩き出した。
生温かい風の中、マサルの横顔が冷たく笑った。
にほんブログ村
「ハコ、どうしよう。マサルが出てこないんだよ」
「出てこないって、どこから?」
「廃墟だよ。F町のはずれの廃墟。入ったきり出てこないんだ」
「あんたたち、まだそんなことやってんの?」
キリコとマサルは、心霊スポット巡りが趣味で、あたしも前は一緒に行っていた。
だけどキリコとマサルが付き合い始めたのを知って、行くのをやめた。
ふたりがこっそり手をつないだり、囁き合ったりするのを見たくなかった。
「勘弁してよ」と言いながら、あたしは車を走らせた。
キリコのためじゃない。心霊スポットが好きなくせに怖がりのマサルが心配だったからだ。
誰も歩いていない寂しい街道。
道は徐々に狭くなり、背の高い草が車のミラーをこするたび、背中がひやりとした。
壊れかけたコンクリートの建物が現れた。20年前に閉鎖されたリゾートホテルだ。
F町の廃墟は、深い靄に包まれていた。
ライトに人影が映った。マサルだった。
「なんだ、マサルいるじゃん」
車を降りて近づくと、マサルはひとりでぼんやり立っていた。
「キリコは?」
「たぶん中にいる」
「何やってんのよ。まったく」
きっとキリコは、なかなか出てこないマサルを捜しに、再び廃墟に入ったのだろう。
「キリコを迎えに行こう」
そう言ってマサルの腕を取ると、それは氷のように冷たかった。
「マサル、よほど怖かったのね。大丈夫?」
「ハコが一緒に行ってくれるなら大丈夫」
弱気なマサルに、今更ながらときめいた。
悟られないように、マサルの前を歩き出した。
ケイタイが震えた。キリコからだった。
「キリコ、何やってんのよ、まったく」
「それはこっちのセリフだよ。ハコこそ何やってんの。早く来てよ」
「え?あたしは廃墟の前にいるよ」
ねえ、と振り返ってマサルを見た。
マサルは青い顔で笑っている。靄のせいか、輪郭がぼやけている。
「ハコ、早く行こう」
マサルがあたしの手を握った。冷たい手。まるで…。
ケイタイから、キリコの声が叫び続ける。
「ハコ、ハコ、どうしたの?どこにいるの?」
泣き叫ぶようなキリコの声に、あたしは応えなかった。
キリコ、悪いわね。マサルはあたしを選んだわ。
あたしはマサルに寄りそって、廃墟へと歩き出した。
生温かい風の中、マサルの横顔が冷たく笑った。
にほんブログ村
真夏の夜の怪 [ホラー]
大学の学生寮でボヤ騒ぎがあった。
誰も住んでいない部屋から不審火が出た。
何者かが忍び込んだという人もいれば、10年前の呪いだという人もいた。
「10年前の呪い?」
「噂ですけどね、10年前にこの寮が火事になったんだって。その火事で亡くなった学生の部屋から、毎年この時期になると悲鳴のような声が聞こえるっていう話です」
「それが今回ボヤを出した部屋…」
「そういうことです」
僕の部屋は、その部屋から離れていたので気づかなかったが、悲鳴を聞いた学生は大勢いた。
「お祓いした方がいいかもな」
先輩は飲んだ缶ビールをつぶして寝っころがった。
アパートに帰るのが面倒になると、先輩は僕の部屋に泊まるのだ。
寝苦しい夜だった。
夜中に先輩が起き上がり、僕を起こした。
「なんですか?」
「便所につきあえ」
「は?ひとりで行って下さいよ。女子高生じゃないんだから」
「気持ち悪いだろ。さっきの話聞いたあとなんだから」
僕はのろのろ起き上がり、先輩といっしょに廊下を歩いた。
「ボヤがあった部屋ってどこ?」
前を歩く先輩が聞いた。
「2階の端ですよ。ここは1階だから物音も聞こえません。安心してください」
「ちょっと、行ってみないか?」
「え?先輩、何言ってるんですか?ひとりでトイレ行けないほど怖がりなんでしょ」
「怖いもの見たさだ」
先輩は振り向いて笑った。青い月明かりが白い顔を照らした。
先輩はトイレを通り過ぎ、階段を昇りだした。
「先輩、やめましょうよ」
怖気づきながらも、僕は先輩の後に続いた。
ギシギシと廊下が鳴る。その音に混じって、微かな悲鳴のような声が聞こえた。
「ね…ねこの声かな…」
冗談めかして言ってみたが、声は大きくなるばかりだ。
2階の端の部屋、201号は何年間も空き部屋だ。だけど紛れもなく声はそこから聞こえた。
「先輩、戻りましょう」
僕が何度叫んでも、先輩は憑りつかれたように進んでいく。
そしてついに、201号のドアを開けてしまった。
突然部屋から真っ赤な炎が吹き出して、先輩を火だるまにした。
まるで先輩をめがけて巨大な火の玉が投げつけられたようだった。
僕は声も出せずに尻餅をついてぶざまに後ずさった。
先輩は火だるまになりながら近づいてくる。
「水…水を…水を…」
うわーっと叫び声を上げながら廊下を走った。
部屋のドアをどんどん叩いても、誰一人出てきてくれない。
転がるように階段を降り、死に物狂いで自分の部屋にたどり着いた。
「あれ?おまえどこか行ってたの?」
先輩が呑気な顔でペットボトルの水を飲んでいた。
「せ、先輩…?」
先輩はずっとこの部屋にいたという。
僕といっしょに廊下を歩いたのは、いったい誰だったのだろう。
「寝てたらやけに暑くてさ、エアコンないときついな」
先輩はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。
僕はハッとして、その水をひったくるように取り上げた。あっけにとられる先輩をしり目に部屋を飛び出し2階の201号に向かった。
さっきとは打って変わって静まり返った廊下に、月明かりが差し込んでいる。
僕は201号の前に水を置いた。
「熱かったんだね」
そう言って手を合わせると、涼しい風がすうっと通り過ぎた気がした。
あとで聞いた話だが、10年前に焼死したのは寮生ではなかったらしい。
たまたま後輩の部屋に泊まりに来ていた3年生だった。
あの日のように暑い夜で、後輩はその時、先輩のために水を買いに行っていたという。
僕はその日から毎日、部屋の前に水を置いた。悲鳴はすっかり聞こえなくなった。
にほんブログ村
誰も住んでいない部屋から不審火が出た。
何者かが忍び込んだという人もいれば、10年前の呪いだという人もいた。
「10年前の呪い?」
「噂ですけどね、10年前にこの寮が火事になったんだって。その火事で亡くなった学生の部屋から、毎年この時期になると悲鳴のような声が聞こえるっていう話です」
「それが今回ボヤを出した部屋…」
「そういうことです」
僕の部屋は、その部屋から離れていたので気づかなかったが、悲鳴を聞いた学生は大勢いた。
「お祓いした方がいいかもな」
先輩は飲んだ缶ビールをつぶして寝っころがった。
アパートに帰るのが面倒になると、先輩は僕の部屋に泊まるのだ。
寝苦しい夜だった。
夜中に先輩が起き上がり、僕を起こした。
「なんですか?」
「便所につきあえ」
「は?ひとりで行って下さいよ。女子高生じゃないんだから」
「気持ち悪いだろ。さっきの話聞いたあとなんだから」
僕はのろのろ起き上がり、先輩といっしょに廊下を歩いた。
「ボヤがあった部屋ってどこ?」
前を歩く先輩が聞いた。
「2階の端ですよ。ここは1階だから物音も聞こえません。安心してください」
「ちょっと、行ってみないか?」
「え?先輩、何言ってるんですか?ひとりでトイレ行けないほど怖がりなんでしょ」
「怖いもの見たさだ」
先輩は振り向いて笑った。青い月明かりが白い顔を照らした。
先輩はトイレを通り過ぎ、階段を昇りだした。
「先輩、やめましょうよ」
怖気づきながらも、僕は先輩の後に続いた。
ギシギシと廊下が鳴る。その音に混じって、微かな悲鳴のような声が聞こえた。
「ね…ねこの声かな…」
冗談めかして言ってみたが、声は大きくなるばかりだ。
2階の端の部屋、201号は何年間も空き部屋だ。だけど紛れもなく声はそこから聞こえた。
「先輩、戻りましょう」
僕が何度叫んでも、先輩は憑りつかれたように進んでいく。
そしてついに、201号のドアを開けてしまった。
突然部屋から真っ赤な炎が吹き出して、先輩を火だるまにした。
まるで先輩をめがけて巨大な火の玉が投げつけられたようだった。
僕は声も出せずに尻餅をついてぶざまに後ずさった。
先輩は火だるまになりながら近づいてくる。
「水…水を…水を…」
うわーっと叫び声を上げながら廊下を走った。
部屋のドアをどんどん叩いても、誰一人出てきてくれない。
転がるように階段を降り、死に物狂いで自分の部屋にたどり着いた。
「あれ?おまえどこか行ってたの?」
先輩が呑気な顔でペットボトルの水を飲んでいた。
「せ、先輩…?」
先輩はずっとこの部屋にいたという。
僕といっしょに廊下を歩いたのは、いったい誰だったのだろう。
「寝てたらやけに暑くてさ、エアコンないときついな」
先輩はごくごくと喉を鳴らして水を飲んだ。
僕はハッとして、その水をひったくるように取り上げた。あっけにとられる先輩をしり目に部屋を飛び出し2階の201号に向かった。
さっきとは打って変わって静まり返った廊下に、月明かりが差し込んでいる。
僕は201号の前に水を置いた。
「熱かったんだね」
そう言って手を合わせると、涼しい風がすうっと通り過ぎた気がした。
あとで聞いた話だが、10年前に焼死したのは寮生ではなかったらしい。
たまたま後輩の部屋に泊まりに来ていた3年生だった。
あの日のように暑い夜で、後輩はその時、先輩のために水を買いに行っていたという。
僕はその日から毎日、部屋の前に水を置いた。悲鳴はすっかり聞こえなくなった。
にほんブログ村
お化け屋敷 [ホラー]
「あのお化け屋敷は、本物の幽霊がいるらしい」
兄さんがにやにやしながら言った。
「面白そうだから行ってみよう」と。
怖がりの僕は「やめよう」と言ったが、取り合ってくれない。
「そんなのでたらめさ。ただの噂だよ」
と僕を引っ張ってお化け屋敷に入った。
それは、何の変哲もない普通のお化け屋敷で、たいして怖くもなかった。
本物の幽霊が出るというのは、客寄せのデマであることに気づいた。
大人になった今ならば、それがよくわかる。
息子が、お化け屋敷のチラシを持ってきた。
「お父さん、このお化け屋敷、本物の幽霊が出るんだって」
僕は苦笑しながら、「そんなのでたらめさ」と言った。
時代は変わっても、やってることは同じだ。
息子を連れてお化け屋敷に行った。
まるであの頃と変わらない。
つまらないありきたりの仕掛けで、ちっとも怖くない。
外に出て帰ろうとしたら息子がいない。
まだ中にいるのだろうか。
「すみません。息子がまだ中にいるんですが、見てきていいですか?」
スタッフに声をかけると、不思議そうに首を傾げた。
「中には誰もいませんよ。だいたいあなたは、お一人で入ったじゃないですか」
「何を言ってるんだ。僕は確かに息子と入ったぞ」
僕はスタッフを押しのけて中に入った。
真っ暗な中に、人の気配は全くない。
墓石が揺れて血だらけの落ち武者が現れた。
人形なのに、やけに生々しい。
その顔は、兄さんによく似ていた。
前の壁が突然崩れ、一つ目小僧が現れた。
にやりと笑った小さなお化けは、息子と同じ服を着ていた。
恐ろしくなって、慌てて飛び出した。
家に帰ると、母さんが夕飯を作っていた。
「おかえり。青い顔してどうしたんだい?」
「母さん、僕の息子は帰っているかな?」
「何言ってるの?結婚もしていないのに、息子がいるわけないだろう」
母さんが呆れたように笑った。
そうだ。そもそも僕には息子などいない。
「あんた。また変な物を見たんだね。子供の頃もそんなことがあったね。あんた一人っ子なのに、『兄さんはどこだ』って、青い顔して帰ってきたよ」
ああ…そうだ。僕には息子もいなければ兄さんもいない。
きっと、お化け屋敷の幽霊たちの客寄せに、うまく引っかかってしまったのだろう。
そして今、小さな手が僕の袖口をつかんでいる。
「ねえ、おじいちゃん、あのお化け屋敷には、本物の幽霊がいるらしいよ」
にほんブログ村
兄さんがにやにやしながら言った。
「面白そうだから行ってみよう」と。
怖がりの僕は「やめよう」と言ったが、取り合ってくれない。
「そんなのでたらめさ。ただの噂だよ」
と僕を引っ張ってお化け屋敷に入った。
それは、何の変哲もない普通のお化け屋敷で、たいして怖くもなかった。
本物の幽霊が出るというのは、客寄せのデマであることに気づいた。
大人になった今ならば、それがよくわかる。
息子が、お化け屋敷のチラシを持ってきた。
「お父さん、このお化け屋敷、本物の幽霊が出るんだって」
僕は苦笑しながら、「そんなのでたらめさ」と言った。
時代は変わっても、やってることは同じだ。
息子を連れてお化け屋敷に行った。
まるであの頃と変わらない。
つまらないありきたりの仕掛けで、ちっとも怖くない。
外に出て帰ろうとしたら息子がいない。
まだ中にいるのだろうか。
「すみません。息子がまだ中にいるんですが、見てきていいですか?」
スタッフに声をかけると、不思議そうに首を傾げた。
「中には誰もいませんよ。だいたいあなたは、お一人で入ったじゃないですか」
「何を言ってるんだ。僕は確かに息子と入ったぞ」
僕はスタッフを押しのけて中に入った。
真っ暗な中に、人の気配は全くない。
墓石が揺れて血だらけの落ち武者が現れた。
人形なのに、やけに生々しい。
その顔は、兄さんによく似ていた。
前の壁が突然崩れ、一つ目小僧が現れた。
にやりと笑った小さなお化けは、息子と同じ服を着ていた。
恐ろしくなって、慌てて飛び出した。
家に帰ると、母さんが夕飯を作っていた。
「おかえり。青い顔してどうしたんだい?」
「母さん、僕の息子は帰っているかな?」
「何言ってるの?結婚もしていないのに、息子がいるわけないだろう」
母さんが呆れたように笑った。
そうだ。そもそも僕には息子などいない。
「あんた。また変な物を見たんだね。子供の頃もそんなことがあったね。あんた一人っ子なのに、『兄さんはどこだ』って、青い顔して帰ってきたよ」
ああ…そうだ。僕には息子もいなければ兄さんもいない。
きっと、お化け屋敷の幽霊たちの客寄せに、うまく引っかかってしまったのだろう。
そして今、小さな手が僕の袖口をつかんでいる。
「ねえ、おじいちゃん、あのお化け屋敷には、本物の幽霊がいるらしいよ」
にほんブログ村
私の百物語 [ホラー]
夏になると、お寺に行った。
怖いもの好きな姉たちといっしょに、寺を借りて百物語をするのだ。
計画を立てるのは春子ねえさん。
実際に動くのは夏子ねえさん。
怖い話が得意な秋子ねえさんは、語りべをする。
末っ子の私は、姉たちの後をついて歩くだけの甘えん坊だ。
名前は、もちろん冬子。
バスが山の寺に着いた。
夕暮れの風が心地よく、さわさわと木々を揺らした。
ひんやりとしたお堂に入ると、夏子ねえさんが用意した百本の蝋燭を並べた。
怪談話が終わるたびに、ひとつ火を消していくのだ。
秋子ねえさんは雰囲気を出すために白い着物に着替える。
黒くまっすぐな髪が、余計に怖さを演出した。
「さあ始めましょう」
太陽がすっかり姿を消すと、春子ねえさんが号令をかける。
私たちはかしこまって座り、秋子ねえさんの静かな声に耳を傾けた。
秋子ねえさんの話は本当に怖い。
昔話や、学校の怪談、実際に見てきたように話す。
私たちは、悲鳴をあげたり「もうやめて~」と泣きそうになったりしながら、99話の話を聞いた。
蝋燭は、いよいよ残り1本になった。
静まり返ったお堂に、青い月明かりが差し込んだ。
「最後は、私たちに関係のある話をしましょう」
秋子ねえさんが言った。
「どんな話?」と私たちは身を乗り出した。
「私たちに、もうひとり妹がいたことは知っているわね」
秋子ねえさんが静かに話し始めた。
「知ってる。生まれる前に死んでしまった妹ね」
春子ねえさんと夏子ねえさんが身を乗り出した。
私は知らなかった。きっと私が生まれる前の話だ。秋子ねえさんと私は、5つ年が離れているから。
「お告げがあったの。百本めの蝋燭を消した時、その子に逢えるって」
「私たちの、もうひとりの妹に?」
「ええ。だから私、試してみようと思う」
そう言うと秋子ねえさんはフッと蝋燭の火を消した。
暗闇と静寂の中で、ねえさんたちはいっせいに私を見た。
「逢えたわ」
「本当だ。あなたが生まれてくるはずだった妹ね。名前は冬子」
「そうよ。逢いたかったわ。冬ちゃん」
姉たちは、私に向かって言った。
「ちょっと、何言ってるの?私はずっといっしょにいたわ」
私の声は、姉たちに届いていない。
「冬ちゃん、可哀想に。私の命を分けてあげられたらいいのに」
「そうよ。生きたかったでしょう?私の命も分けてあげたいわ」
「冬ちゃん、私の命もあなたにあげるわ」
姉たちが私の手を取る。
「やめて!私は生きてるわ。ちゃんと生きてるわ!」
私は姉たちの手を振りほどいてお堂を出た。月はいつの間にか消え、何もない深い闇の中に、私の体は落ちていった。
***
目を開けると、白い天井があった。体が思うように動かない。
いったい何が起こったのだろう。
「気が付いたわ」
両親が、涙顔で私の顔を覗き込んだ。医者と看護師がやってきた。
「いったい私はどうしたの?」
頭はまだぼんやりとしていたが、生きているという事実だけは、はっきりとわかった。
私たち四姉妹を乗せたバスが、山道で転落した。
発見されたとき、息があったのは私だけだったそうだ。
3人のねえさんが、私に命をくれたのだと、そのとき思った。
怖い話が好きだった姉たちが、最期に聞かせてくれた百物語は、こうして終わった。
にほんブログ村
怖いもの好きな姉たちといっしょに、寺を借りて百物語をするのだ。
計画を立てるのは春子ねえさん。
実際に動くのは夏子ねえさん。
怖い話が得意な秋子ねえさんは、語りべをする。
末っ子の私は、姉たちの後をついて歩くだけの甘えん坊だ。
名前は、もちろん冬子。
バスが山の寺に着いた。
夕暮れの風が心地よく、さわさわと木々を揺らした。
ひんやりとしたお堂に入ると、夏子ねえさんが用意した百本の蝋燭を並べた。
怪談話が終わるたびに、ひとつ火を消していくのだ。
秋子ねえさんは雰囲気を出すために白い着物に着替える。
黒くまっすぐな髪が、余計に怖さを演出した。
「さあ始めましょう」
太陽がすっかり姿を消すと、春子ねえさんが号令をかける。
私たちはかしこまって座り、秋子ねえさんの静かな声に耳を傾けた。
秋子ねえさんの話は本当に怖い。
昔話や、学校の怪談、実際に見てきたように話す。
私たちは、悲鳴をあげたり「もうやめて~」と泣きそうになったりしながら、99話の話を聞いた。
蝋燭は、いよいよ残り1本になった。
静まり返ったお堂に、青い月明かりが差し込んだ。
「最後は、私たちに関係のある話をしましょう」
秋子ねえさんが言った。
「どんな話?」と私たちは身を乗り出した。
「私たちに、もうひとり妹がいたことは知っているわね」
秋子ねえさんが静かに話し始めた。
「知ってる。生まれる前に死んでしまった妹ね」
春子ねえさんと夏子ねえさんが身を乗り出した。
私は知らなかった。きっと私が生まれる前の話だ。秋子ねえさんと私は、5つ年が離れているから。
「お告げがあったの。百本めの蝋燭を消した時、その子に逢えるって」
「私たちの、もうひとりの妹に?」
「ええ。だから私、試してみようと思う」
そう言うと秋子ねえさんはフッと蝋燭の火を消した。
暗闇と静寂の中で、ねえさんたちはいっせいに私を見た。
「逢えたわ」
「本当だ。あなたが生まれてくるはずだった妹ね。名前は冬子」
「そうよ。逢いたかったわ。冬ちゃん」
姉たちは、私に向かって言った。
「ちょっと、何言ってるの?私はずっといっしょにいたわ」
私の声は、姉たちに届いていない。
「冬ちゃん、可哀想に。私の命を分けてあげられたらいいのに」
「そうよ。生きたかったでしょう?私の命も分けてあげたいわ」
「冬ちゃん、私の命もあなたにあげるわ」
姉たちが私の手を取る。
「やめて!私は生きてるわ。ちゃんと生きてるわ!」
私は姉たちの手を振りほどいてお堂を出た。月はいつの間にか消え、何もない深い闇の中に、私の体は落ちていった。
***
目を開けると、白い天井があった。体が思うように動かない。
いったい何が起こったのだろう。
「気が付いたわ」
両親が、涙顔で私の顔を覗き込んだ。医者と看護師がやってきた。
「いったい私はどうしたの?」
頭はまだぼんやりとしていたが、生きているという事実だけは、はっきりとわかった。
私たち四姉妹を乗せたバスが、山道で転落した。
発見されたとき、息があったのは私だけだったそうだ。
3人のねえさんが、私に命をくれたのだと、そのとき思った。
怖い話が好きだった姉たちが、最期に聞かせてくれた百物語は、こうして終わった。
にほんブログ村
猫屋敷(怪談) [ホラー]
あれは、私がまだ探偵をしていた頃だ。
ひとりの男が私の事務所を訪れた。蒸し暑い夏の午後だった。
「私は、いくつかのアパートを経営しております。その中に古い一戸建てのアパートがあります。ご老人がひとりで暮らしております。
そのアパートで、妙なうわさが流れて困っているのです」
「うわさ?」
「夜中に猫が騒ぐ声が聞こえると、近所から苦情がきたのです」
「なるほど」
「しかし老人は猫など飼っていないという。確かに私が見る限り、猫はどこにもいないのです」
「それで、私に確認してほしい、と言うわけですか?」
「そうです。老人と猫が一緒にいる証拠写真を撮ってほしいのです。もし猫を飼っていれば条約違反です。立ち退きを要求することも出来ます。あの家を壊して駐車場にしようと、息子に再三言われているんですよ」
「わかりました。お引き受けしましょう」
老人が可哀想だと思いながらも、私は仕事を引き受けた。
私は真夜中に、そのアパートに向かった。
炎天下で張り込みをするよりは、ずっと楽だと思った。
新しいマンションが建ち並ぶ中で、そのアパートだけが明らかに時代遅れだ。
50年ほどタイムスリップしたように古くてみすぼらしい。
近づくと、獣の臭いがした。そして騒音に近い鳴き声が聞こえた。
1匹どころではない。数十匹はいるだろう。
木の板で出来た塀は、あちこち穴が開いていて容易に覗けた。
見ると暗闇に、ぽつりと座るおばあさんが見えた。
猫の姿は見当たらない。
おばあさんは、誰かに話しかけるように、ひとりごとを言っていた。
「こらこら、ケンカをするんじゃないよ」
「よしよし。おなかがすいたんだね」
「くすぐったいよ。やめておくれ」
まるでそこに猫がいるようにしゃべっていた。
私は思った。ひょっとしたら、猫の霊が集まっているのではないか。
私には霊感がないから見えないが、おばあさんには猫が見えているのだ。
確かに猫が集まるのにふさわしい家だ。
私はカメラを取り出して、庭全体が写るようにフラッシュを焚かずにシャッターを切った。
そして事務所に帰り、すぐに現像をしてみると、やはり写っていた。
縁側に座るおばあさんを囲むように、たくさんの猫。
20匹はいるだろうか。猫の心霊写真だ。
翌日、依頼人を呼んで写真を見せた。
「このとおり、おばあさんを囲んで猫の霊がたくさん写っています。除霊をした方がいいでしょうね」
依頼人は写真をみて怪訝な顔をした。
「何も写ってないじゃないですか。ふざけてるんですか?」
「いや、写ってますよ。ほら、おばあさんと猫が」
「真っ黒な写真じゃないですか。だいたいおばあさんって誰です?この家の住人は男性ですよ」
家を間違えたのか?そんなはずはない。
私はその夜、再び古い家を訪れた。
猫の鳴き声が聞こえる。獣の気配が確かにする。
今度は、塀の穴から覗かずに、直接庭に入っていった。
どうしても確かめたかったのだ。
昨日は見えなかった猫が、そこにいた。光る眼がいっせいに私を見た。
おばあさんがゆっくり立ち上がり
「おや、新しい管理人かい?」と言った。
「ちがいます」と言う前に、おばあさんは私のとなりをすっと通り過ぎた。
「よかった。これであたしも成仏できるよ」
そう言うと、おばあさんは暗闇に消えた。
猫たちが、私を誘導するように縁側へと導いた。
私は、ひんやりする縁側に座り、猫を撫でながら話しかけていた。
「どうした。おなかすいたのか?」
「くすぐったいよ。やめてくれよ」
それ以来、私はここにいる。
新しい管理人が来るまで、ただ縁側に座っているのだ。
にほんブログ村
ひとりの男が私の事務所を訪れた。蒸し暑い夏の午後だった。
「私は、いくつかのアパートを経営しております。その中に古い一戸建てのアパートがあります。ご老人がひとりで暮らしております。
そのアパートで、妙なうわさが流れて困っているのです」
「うわさ?」
「夜中に猫が騒ぐ声が聞こえると、近所から苦情がきたのです」
「なるほど」
「しかし老人は猫など飼っていないという。確かに私が見る限り、猫はどこにもいないのです」
「それで、私に確認してほしい、と言うわけですか?」
「そうです。老人と猫が一緒にいる証拠写真を撮ってほしいのです。もし猫を飼っていれば条約違反です。立ち退きを要求することも出来ます。あの家を壊して駐車場にしようと、息子に再三言われているんですよ」
「わかりました。お引き受けしましょう」
老人が可哀想だと思いながらも、私は仕事を引き受けた。
私は真夜中に、そのアパートに向かった。
炎天下で張り込みをするよりは、ずっと楽だと思った。
新しいマンションが建ち並ぶ中で、そのアパートだけが明らかに時代遅れだ。
50年ほどタイムスリップしたように古くてみすぼらしい。
近づくと、獣の臭いがした。そして騒音に近い鳴き声が聞こえた。
1匹どころではない。数十匹はいるだろう。
木の板で出来た塀は、あちこち穴が開いていて容易に覗けた。
見ると暗闇に、ぽつりと座るおばあさんが見えた。
猫の姿は見当たらない。
おばあさんは、誰かに話しかけるように、ひとりごとを言っていた。
「こらこら、ケンカをするんじゃないよ」
「よしよし。おなかがすいたんだね」
「くすぐったいよ。やめておくれ」
まるでそこに猫がいるようにしゃべっていた。
私は思った。ひょっとしたら、猫の霊が集まっているのではないか。
私には霊感がないから見えないが、おばあさんには猫が見えているのだ。
確かに猫が集まるのにふさわしい家だ。
私はカメラを取り出して、庭全体が写るようにフラッシュを焚かずにシャッターを切った。
そして事務所に帰り、すぐに現像をしてみると、やはり写っていた。
縁側に座るおばあさんを囲むように、たくさんの猫。
20匹はいるだろうか。猫の心霊写真だ。
翌日、依頼人を呼んで写真を見せた。
「このとおり、おばあさんを囲んで猫の霊がたくさん写っています。除霊をした方がいいでしょうね」
依頼人は写真をみて怪訝な顔をした。
「何も写ってないじゃないですか。ふざけてるんですか?」
「いや、写ってますよ。ほら、おばあさんと猫が」
「真っ黒な写真じゃないですか。だいたいおばあさんって誰です?この家の住人は男性ですよ」
家を間違えたのか?そんなはずはない。
私はその夜、再び古い家を訪れた。
猫の鳴き声が聞こえる。獣の気配が確かにする。
今度は、塀の穴から覗かずに、直接庭に入っていった。
どうしても確かめたかったのだ。
昨日は見えなかった猫が、そこにいた。光る眼がいっせいに私を見た。
おばあさんがゆっくり立ち上がり
「おや、新しい管理人かい?」と言った。
「ちがいます」と言う前に、おばあさんは私のとなりをすっと通り過ぎた。
「よかった。これであたしも成仏できるよ」
そう言うと、おばあさんは暗闇に消えた。
猫たちが、私を誘導するように縁側へと導いた。
私は、ひんやりする縁側に座り、猫を撫でながら話しかけていた。
「どうした。おなかすいたのか?」
「くすぐったいよ。やめてくれよ」
それ以来、私はここにいる。
新しい管理人が来るまで、ただ縁側に座っているのだ。
にほんブログ村
石段の記憶 [ホラー]
ボクには3つ上の兄さんがいた。
兄さんは離れでおばあちゃんと暮らしていた。
僕は幼かったから事情はわからない。
だけど家で兄さんの話はタブーとされており、父さんも母さんも何も言わない。
兄さんは学校へも行かずブラブラしていたが、父さんと母さんはやはり何も言わない。
兄さんは時々ふらりとやってきて、僕を遊びに誘った。
僕たちは寺の境内で遊んだ。
あれは、夏休みが始まったばかりの蒸し暑い日だった。
鬱蒼と茂る木に囲まれた寺の石段を昇るとき、兄さんが言った。
「夜中の12時に、この石段が一段増えるらしい」
「うそだー」
僕はまだ8歳で、とても怖がりだった。
「本当だよ。11段の石段が12段になってるんだ。そして石段を昇り終えた時、未来の自分の姿が見えるんだ」
僕はすごく怖がりだったけど、未来の自分には、ちょっと会ってみたいと思った。
だからその夜、父さんと母さんが寝てるのを確かめて、こっそり家を抜け出した。
石段の前で兄さんが待っていた。
夜中なのに蒸し暑く、ランニングがぐっしょり濡れるほど汗をかいていた。
「いいか。昇るぞ」
僕たちは、数えながら石段を昇った。
1段、2段、3段……11段、12段…
確かに、石段は12段あった。
「兄さん、1段増えてるね」
そう言って僕たちが顔を上げると、目の前に男の人が立っていた。
紺のスーツを着ている40歳くらいの人だ。
僕は最初、父さんかと思った。だって、その人は父さんによく似ていた。
だけど父さんはスーツなんか着ないし、火事でも起きないくらい、ぐっすり眠っていた。
僕は思った。未来の自分だと。
だけどおかしい。
僕たちはふたりいるのに、男の人はひとりだけだ。
「兄さん、ひとりしか見えないよ」
「ああ、おれにもひとりしか見えない」
僕は急に怖くなった。
もしかして、僕たち二人のうちどちらかには、未来がないのかもしれない。
大人になる前に、死んでしまうのではないか。
僕は、石段を駆け下りで、そのまま家まで走って帰った。
そして布団にもぐりこむと、丸くなって朝を待った。
暑いのに体がぶるぶると震えた。
その日から、兄さんとは会わなくなった。
僕は心の中で、大人になる前に死ぬのが兄さんならいいのに、と思った。
そして、そんなことを思う自分が嫌で仕方なかった。
数日後、おばあさんが亡くなった。
母さんと父さんは、葬式やらで忙しく、そこに兄さんがいないのに何も言わない。
「ねえ、兄さんはどうしたの?」
しつこく背中を追いかけて母さんに聞くと、イライラした様子で
「あんたに兄さんはいないでしょう」と言った。
亡くなったおばあさんの離れには、兄さんが暮らした形跡はかけらもなかった。
ようやく落ち着いた頃に、父さんが話してくれた。
「おまえには、確かに兄さんがいた。だけど生まれてすぐに死んでしまったんだ。母さんはそのあと体調を崩して半年寝込んだ。そして悲しい記憶をすっかり消したんだ」
そういうことか…。そういえば、僕は兄さんの顔をはっきり思い出すことが出来なかった。
いっしょに遊んだ記憶も、何だか夢だったような気もする。
石段を、数えながら昇ったのは確かなのに…。
僕は大人になった。
家庭を持ち、父親になった。
ある夜、仕事で遅くなった帰り道、ふとあの寺に行ってみようと思った。
あの時も、こんなふうに蒸し暑い7月の夜だった。
石段の上に立つと、「1段、2段、3段」とふたつの声が聞こえた。
来る…。ひとりは幼い僕だ。そしてもうひとりは兄さんだ。
「兄さん、1段増えてたね」
そう言ったのは息を切らした幼い僕だ。
その隣には、誰もいなかった。
ただ、ふっと冷ややかな風が、墓場の方に通り過ぎるのを感じた。
にほんブログ村
兄さんは離れでおばあちゃんと暮らしていた。
僕は幼かったから事情はわからない。
だけど家で兄さんの話はタブーとされており、父さんも母さんも何も言わない。
兄さんは学校へも行かずブラブラしていたが、父さんと母さんはやはり何も言わない。
兄さんは時々ふらりとやってきて、僕を遊びに誘った。
僕たちは寺の境内で遊んだ。
あれは、夏休みが始まったばかりの蒸し暑い日だった。
鬱蒼と茂る木に囲まれた寺の石段を昇るとき、兄さんが言った。
「夜中の12時に、この石段が一段増えるらしい」
「うそだー」
僕はまだ8歳で、とても怖がりだった。
「本当だよ。11段の石段が12段になってるんだ。そして石段を昇り終えた時、未来の自分の姿が見えるんだ」
僕はすごく怖がりだったけど、未来の自分には、ちょっと会ってみたいと思った。
だからその夜、父さんと母さんが寝てるのを確かめて、こっそり家を抜け出した。
石段の前で兄さんが待っていた。
夜中なのに蒸し暑く、ランニングがぐっしょり濡れるほど汗をかいていた。
「いいか。昇るぞ」
僕たちは、数えながら石段を昇った。
1段、2段、3段……11段、12段…
確かに、石段は12段あった。
「兄さん、1段増えてるね」
そう言って僕たちが顔を上げると、目の前に男の人が立っていた。
紺のスーツを着ている40歳くらいの人だ。
僕は最初、父さんかと思った。だって、その人は父さんによく似ていた。
だけど父さんはスーツなんか着ないし、火事でも起きないくらい、ぐっすり眠っていた。
僕は思った。未来の自分だと。
だけどおかしい。
僕たちはふたりいるのに、男の人はひとりだけだ。
「兄さん、ひとりしか見えないよ」
「ああ、おれにもひとりしか見えない」
僕は急に怖くなった。
もしかして、僕たち二人のうちどちらかには、未来がないのかもしれない。
大人になる前に、死んでしまうのではないか。
僕は、石段を駆け下りで、そのまま家まで走って帰った。
そして布団にもぐりこむと、丸くなって朝を待った。
暑いのに体がぶるぶると震えた。
その日から、兄さんとは会わなくなった。
僕は心の中で、大人になる前に死ぬのが兄さんならいいのに、と思った。
そして、そんなことを思う自分が嫌で仕方なかった。
数日後、おばあさんが亡くなった。
母さんと父さんは、葬式やらで忙しく、そこに兄さんがいないのに何も言わない。
「ねえ、兄さんはどうしたの?」
しつこく背中を追いかけて母さんに聞くと、イライラした様子で
「あんたに兄さんはいないでしょう」と言った。
亡くなったおばあさんの離れには、兄さんが暮らした形跡はかけらもなかった。
ようやく落ち着いた頃に、父さんが話してくれた。
「おまえには、確かに兄さんがいた。だけど生まれてすぐに死んでしまったんだ。母さんはそのあと体調を崩して半年寝込んだ。そして悲しい記憶をすっかり消したんだ」
そういうことか…。そういえば、僕は兄さんの顔をはっきり思い出すことが出来なかった。
いっしょに遊んだ記憶も、何だか夢だったような気もする。
石段を、数えながら昇ったのは確かなのに…。
僕は大人になった。
家庭を持ち、父親になった。
ある夜、仕事で遅くなった帰り道、ふとあの寺に行ってみようと思った。
あの時も、こんなふうに蒸し暑い7月の夜だった。
石段の上に立つと、「1段、2段、3段」とふたつの声が聞こえた。
来る…。ひとりは幼い僕だ。そしてもうひとりは兄さんだ。
「兄さん、1段増えてたね」
そう言ったのは息を切らした幼い僕だ。
その隣には、誰もいなかった。
ただ、ふっと冷ややかな風が、墓場の方に通り過ぎるのを感じた。
にほんブログ村